旧臘 奈良に遊ぶ

 孫娘の誘いで神戸行きとなったが、その前日奈良に遊ぶことにした。12月18日のこと。本来であれば、亡妻も一緒に行くはずで、何となく悔しく思った時に、一句が思い出された。「お水取り亡妻(つま)も火の粉をかぶったに」。金子兜太の眼に留まり、選を得た。ご存じ東大寺二月堂に供養も兼ねて足を運ぶのも悪くはない。八十路を過ぎての行動基準は、次はないぞ、思い立った時にやるべし。やけっぱちで、余生を生き切ろうというもの。それぞれの「あたわった人生」を生きていくしかない。「あたわり」はいい言葉である。東大寺のほとんどがインバウンドで、二月堂は人影も無かった。

 JR奈良駅の真ん前のホテルに投宿し、近くの居酒屋で盃を運んだ。翌日は急ぐこともないので、大阪行きの時刻表を見ていると、何と数駅で法隆寺駅とある。これはラッキーと「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」とつぶやきつつ、200円の乗車券を求めた。降りると小型バスが待っており、数人が乗り込んだ。バス停から五重塔を目指しつつ歩く。境内に入り、拝観料を見て驚いてしまった。2000円也。確かに重厚な伽藍は他の寺社を圧倒しているが、果たしてどうか。駅から一緒だった女性二人は悲鳴を挙げながら、財布を取り出していた。何故か、気安く妥協してはならない気分になっていた。

 そういえば、黒岩重吾の古代史小説で、聖徳太子像がはっきりと見えるようになったのはほぼ50年前。この斑鳩が舞台であった。仏教伝来を機に、守旧派・物部氏を倒し台頭した蘇我氏は崇峻天皇を殺めるまでになり、聖徳太子もその政治権力の前に、志半ばで挫折してしまう。黒岩の小説手法は、人間の心に潜む暗い部分も描いていく。飛鳥の歴史が年表でなく、それぞれの人間が織りなしていくことがよく分かった。

 思い直してみて、この拝観料は支払うべきではないと結論付けた。わが斑鳩は胸の内にきれいに治まっている。拝観料が歪めてしまう。遠くから、五重塔を眺めるに止めた。

 さて、奈良といえば高市早苗の選挙地盤である。ほとんど興味がなく、できれば触れたくない政治家である。テレビ局に関わるわが友人は蛇笏の如く嫌っている。2016年2月の総務大臣としての国会答弁で、ひとつの番組でも政治的公平性を欠けば、電波停止を明言した。菅官房長官や安倍総理も、この発言を「当然のこと」「問題ない」として是認する。彼はその答弁が、夜な夜なよみがえるのだという。電波停止は即破産につながる。政治的な公平性など何とでも解釈できる。この種の人間は、間違っていても、断定的な口ぶりでいい切る。底の浅さを、はったりで言い負かそうとする習性がいつの間にか身についてしまったのだろう。先の台湾有事の存立危機事態発言も然り。筆者が最も嫌うのは、亡き安倍後継を自認し、安倍の顔写真を掲げて伊勢神宮に参拝した時は吐き気を催した。これ以上斑鳩の里を汚してほしくない。

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