秋の夜に篠笛が吹きわたる。初めて笛の音に心驚かされたのが、金沢・東茶屋街にある「志摩」の茶室であった。BGMで流されているのだが、飽きることがない。係りの人に、曲名は何か、CDを求めたいと聞くのだが、要領を得なかった。ところが、東京芸大邦楽科卒の同級生にそれとなく尋ねると、人間国宝の宝山左衛門(たから・さんざえもん)の作品に間違いないと断定してくれた。送られてきたCDで「竹の踊~竹のうた」とわかり、ようやくに胸のわだかまりが解けたのであった。茶室のしつらいにぴたりと合わせた選曲のセンスには感服せざるを得ない。
その宝山左衛門が8月7日、老衰で亡くなったのを新聞で知り、記された出自にさもありなんと肯くしかなかった。長唄囃子方の福原家宗家に生まれ、6歳から父である5世福原百之助に師事して小鼓と太鼓の手ほどきを受けた。笛を習い始めたのが7年後という。6世福原百之助を襲名した後に、歌舞伎囃子方の名跡を継ぎ4世宝山左衛門となっている。「心は常に正常心。情景の中に入り込んでこそ、本当の音色になる」と芸の奥義を語っているが、端正な顔立ち、きりっとした和服の着こなし、そこから立ち昇る清冽な音色、まるで一幅の日本画といっていい。篠笛の演奏もさりながら、その作曲は日本人の感性をわしづかみにする魅力がひそんでいる。宮城道雄の「春の海」を耳にした時の衝撃と変わらないと思っている。
次なる余話である。「あはれ. 秋風よ. 情(こころ)あらば伝へてよ」。ご存じ佐藤春夫の秋刀魚の歌だが、ようやく口ずさむ季節になったと思った矢先に佐藤春夫・長男の訃報が飛び込んできた。8月23日京王線新宿駅ホームで故意ではなくぶつかってきた男に押し出され、電車とホームに挟まって死亡した佐藤正哉・星槎大学学長がそうである。77歳で、日本の心理学の大家でもあった。この事故死の報に、誰しも谷崎潤一郎の「細君譲渡事件」を思い出したはずである。
佐藤が友人である谷崎潤一郎の妻・千代に横恋慕し、その千代を佐藤が譲り受けるということがあった。昭和5年のことである。話は単純ではなく、谷崎は千代の妹である「せい」に思いを寄せていたが、やむなく姉と結婚した経緯があり、結婚生活はギクシャクしたものであった。不遇の千代を慰めようとしたのが佐藤で、いつしか思いが募り、膨大な恋文が残っている。一旦は譲渡を決めたのだが、谷崎は妹せいに拒まれてしまって前言を翻してしまう。怒った佐藤は谷崎と絶交し、千代には訣別の手紙を送っている。その時の佐藤の心情を綴ったのが「秋刀魚の歌」だった。その後ふたりの交友は復活し、晴れて春夫と千代が結婚することになる。その2年後、第一子として正哉が生まれた。名付け親が谷崎であった。数奇な運命を辿った命が、こうした偶発ともいえる不幸な事件に巻き込まれて散ってしまう。人生の儚さというしかない。
秋の余話とかと、世迷いごとに逃避していいのかとの叱咤の声も聞いたのである。文藝春秋本誌に老後特集をすると訪れたフリーのライター氏からだ。出版界の不況は極限に達していて、とにかく取材費が出ない。出ないから満足な取材が出来ない。取材の裏づけのないものは読むに堪えません。完全な悪循環です。フリーの市場は干上がってしまって、新たな人材がはいってくることが考えられない。テレビ番組の質の低下と同レベルで、出版も沈没寸前となっている。恐らくノンフイクションで読めるものはなくなってしまうでしょう。そんな悲痛な声であった。ところで比較的にいいところもあるのでは、と聞くと、即座に文春のスポーツ雑誌「ナンバー」ですと返ってきた。厳しい生き残り選別競争が繰り広げられているのである。
笛を聴き、秋刀魚の歌を口ずさんでいる老人は最初に選別されていいのかもしれない。
秋の余話