貧困も、格差も、こんな視点から眺めてみれば、取るに足らない。何をそれほど思い悩むのか、となる。絶筆にして未完の「良寛」は、干からびた心もちに染み渡るようであった。亡き立松和平の生真面目さが笑顔で語りかけているのだ。立松が良寛となって、かく生きよ、と苦しむ若者達にいい聞かせているようにも感じる。
例えば、庭の草取りだ。草はとってもとっても生えてくる。まるで心の中から払っても払っても湧き上がってくる三毒のようではないか。貪りの心である貪欲(とんよく)、怒りの心である瞋恚(しんに)、愚かさのために迷い惑う愚癡(ぐち)の三つの煩悩は、払っても払っても生じてきて善根を毒する。それなら毎日でも根から抜いていかねばならない。それが草むしりをすることだ。
そんな思いを込めて、庭の草取りに励め、といっている。それが三毒におかされそうになる煩悩の自分とたたかう時間でもあるのだ。草取りの時間があれば、道元の「正法眼蔵」を読む時簡に充てた方がよいとするのは間違っている。草取りから学ぶ方が大きいことも悟るべきなのである。不立文字(ふりゅうもんじ)とはこのこと。さすれば、すべての日常作業がそうであり、日常こそ作務修業であり、仏道でもある。
また貧困も恐れることはない、と。仏道を学ぶ人は貧乏でなければならない。財宝は仏道への志をくじけさせる毒である。在家でいくら一所懸命に仏道を学んでも、財宝を貪り、食を貪って、一族縁者とつきあっていると、たとえどれほど志があろうと道に至るのは困難である。昔から在家の人で仏道に参学する人は多いけれど、すべてを捨てた出家にはどうしてもおよばない。僧の持ち物は袈裟一枚と応量器だけで、財宝を持たず、住宅を持たず、食を貪らないから、ひたむきに学道することができる。人は皆それぞれの分に応じた益を得ることができるというものだ。貧乏こそが、仏道には親しいのである。
この「良寛」は月刊「大法輪」に07年1月号から連載され、10年3月号が絶筆となっている。この号での良寛は68歳、貞心尼との出会いは70歳であるから届いていない。70歳と30歳の男女の機微をどうように描くのか興味があったのに、残念至極という他ない。やわ肌の熱き血潮にふれもせで悲しからずや道を説く君、というわけにはいかなかったし、大法輪読者はそんなことを期待していなかったかもしれない。
立松和平に会ったのは、02年11月27日茅ヶ崎市民会館である。「正法眼蔵」全95巻に挑み、道元禅師を書き上げたばかりで、気分が高まっているように感じた(バックナンバー133参照)。亡くなったのは2月8日、62歳であった。2年後輩ということになるが、集英社の内定を得ながら留年して作家を目指すと辞退している。集英社内定を得ていたのは筆者も同じで、もし入社していれば、少女雑誌マーガレットの編集を「バカらしくて、やってられない」と愚痴をこぼし合いながら、机を並べてやっていたかもしれない。
立松にはもうひとつ未完絶筆がある。「白い河」で田中正造を描いている。正造を描くのは2度目で、足尾鉱毒事件との関わりにどれほど執着していたか、という表れである。無欲恬淡、托鉢修行に生きた良寛と、国家権力と農民という厳しい戦いに命を賭けた正造。立松の中にある静と動の矛盾でもある。「月の兎」という仏教故事がこの矛盾をつなぐように、ふたつの絶筆に書かれている。老人に身をやつした天帝の飢えを助けるために、兎は炎に自ら身を投じて、食してほしいとわが身を投げ出したのである。天帝はそのけなげさに泣き崩れ、月の宮殿に兎を葬ったというもの。
人のために命を投げ出すのが、一番尊い生き方。誰にでもできることではないが、胸にしまっておけ、というメッセージをふたつの未完絶筆に込めたのだろうか。
親友で詩人でもある福島泰樹の「さらば 立松和平」もいい。
未完絶筆 良寛