次々と逝く全共闘世代

確実にある時代が終わろうとしている。藤本敏夫が7月31日、58歳。今井が9月1日62歳。この二人が相次いで逝った。生き急ぎ、死に急いだとはいえ、やはり先駆者たりえたのではないかと思う。

1969年1月18日深夜、催涙弾が立ち込める本郷三丁目に降り立った。興奮と恐怖、何かにせきたてられるように人だかりを掻き分けていた。東大正門前、これより結界というように機動隊が鋼鉄の盾を林立させている。安田講堂からは散発的に火炎瓶が落とされていた。それは立てこもる学生の、最後の涙のようにも見えた。落城寸前を、完璧な警備に為すこともなくただ見ておるというのはつらい。誰いうとなくカルチェ・ラタンと呼んだ神田駅周辺へ行こうということに。誰かの後を追うように歩きに歩いた。そこでも逃げ惑うばかりであった。前年に地方新聞社に入社していたのだが、生来の好奇心とこの機会を逃してなるものかという蓮っ葉さで、有給休暇を申し出て上京していた。しかしこれが小市民の限界。もしここでパクられたら、お終いだなという俗な打算が働く。藤本、今井二人との大きな差である。

さりながら、あの時に東大が解体されていたら、との思いは強い。その東大闘争で最初に立ち上がったのが医学部。学生・今井澄はその先頭に立っていた。安田講堂に立てこもった防衛隊長。あの丸山真男教授は「今井君が提起した問題を真剣に受けとめよう。それが紛争を解決する道だ」といって呼応した。丸山教授を中心とした「改革フォーラム」はこんな解体プランを出した。駒場を4年制のリベラルアーツのカレッジにする。本郷のすべての学部を独立させて専門学校にするというもの。しかしこの解体案は全学部で拒否された。丸山真男は東大を去る。寒々としたキャンパスが今に続くのである。

今井は退学処分などを受けて卒業したのが30歳。それから農村医療に取り組むべく諏訪中央病院へ。あの「頑張らない」の鎌田實が彼の後の院長というではないか。そして旧社会党(現民主党)から参議院選に打って出て2期目。鳩菅らの兄貴分で民主党福祉医療のパイオニアであった。著書「理想の医療を語れますか」の終章に「連帯を求めて孤立を恐れず。力尽きて倒れることを辞さないが、力尽くさずして倒れることを拒否する」と聞きなれた文句で結ばれている。こんな逸話がうれしい。今井は病院勤務の半ばで、学生時代の刑が確定して静岡刑務所にはいる。その時諏訪市長は「がんばれよ」と激励し送り出し、出所した後も再び受け入れて病院長にしたのである。「その市長を尊敬している」といって憚らなかった。そして房内で勉強し直し、外科から予防重視の内科に転科した。長野を長寿県にして老人医療費が最低という「長野モデル」を確立させた功労者だ。田中知事圧勝と今井の死が同じというのも不思議な巡り合わせである。

一方藤本だ。ご存じ加藤登紀子の旦那である。登紀子には勿体ないほどの端正ないい男だ。防衛庁突入の罪で3年8ヶ月の実刑を受け獄中にいる藤本に、「子どもが出来た。結婚したい」と迫ったのがお登紀さん。72年5月、看守の立会いの下で獄中結婚だ。簡単にいえば出来ちゃった婚のさきがけ。出獄後内ゲバに苦しみ絶望して、農業にいきつく。「人間は地球に土下座して謝るべきだ。すべて最初からやり直そう」これがエコロジスト藤本の宣言。実践の場が鴨川自然王国。この時には3人の女の子に恵まれている。絶筆になったのが現代農業8月号に書いた「青年帰農」。日本人はすべからく農的生活をと訴え、中高年の定年帰農をもっと大きな社会的な流れにしようという。青年にも帰農の動きがあるのを心底喜んでいる。藤本は最期まで「ひとり」という感じのする人でした、と登紀子。30年の結婚生活で3回離婚を彼女からいい出している。その都度「そうか」とうなずくだけ。そんな潔さに翌朝には「おはよう」といっている。彼女の「青い月のバラード」がその辺のところを歌っている。

この今井、藤本をくっつけると、鴨川自然王国で有機農法に携わり、諏訪中央病院の終末医療を受けるのが理想の老後ということになる。しかしこの二人は恵まれていた。老境に差し掛かる今となっても、いまだに世に受け入れられずに苦難の日々を送っている無数の全共闘世代もいることを忘れないでいただきたい。

こう見てくると、若いときには社会の矛盾に大いに反抗し、1、2年ゆっくりと思索する時間を与えられることがいかに大事かと思えてくる。老少不定であれば、いまからでも遅くはない。イラク出撃を思いとどませる檄文をもってアメリカ大使館に突入する老全共闘がいてもいいのではないか。与えられた入獄期間で、仏典をむさぼるのも決して無駄ではない。

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