若者はやはり海外経験を持つべきである。留学であれ、青年海外協力隊であれ、親戚知り合いでの長期滞在であれ、何でもいい。そこの生活文化を肌で感じることが大事だ。知り合いの酒屋の娘が、金沢大学から1年間、交換留学生としてフィンランドへ留学していて、このほど無事帰国した。「性格が全く変わってしまって、せかせかした私の行動を見下げているようなの。日常生活での波長が合わなくなった感じで、就職はせずに、この大学の大学院に進もうかといい出して、困っているのよ。どうしたらいいのかね」と頭を抱えている。「子どもというのは生きているだけでよし、とする時代になったのですよ」と返したが、本音である。
この娘が留学したのはユバスキュラ大学。ヘルシンキから300キロ離れた中部フィンランドに位置し、人口は周辺含めて13万人で、中心部では学生が過半数を占める。一方で、製紙産業、エネルギー、環境、ナノテク、ITなどのビジネスも活発で、産学連携融合が政策的に進められている。留学生受け入れも手厚く、移民含めて優秀な人材移入がこの国を支えるという理念が底流に流れている。
彼女はこの1年間でどんな経験をしたのであろうか。少なくとも富山へ帰って、公務員か、銀行・電力か、という就活がどんな意味を持つのか、そんな疑問にノーというか、ナンセンスという確信を抱いたことは間違いないようだ。太陽を見ることのない酷寒の暗い冬、日が沈まずにどんよりとしている夏。そんな自然環境に立ち向かうように、音楽、絵画、デザインなど人間性を取り戻す街づくり策が張り巡らされている。とりわけフィンランドの幼児教育を実際に見て欲しいと、誰でも学校をのぞくことができる。これは得がたいこと。子どもの笑顔が何といっても一番。自ら受けてきた鋳型に嵌めこむような幼児教育との違いに驚いたに違いない。生きるというのはどういうことなのか、を深く考えざるを得なかったのだ。
長い8月がようやく晦日を迎えた。長く感じたのは、厳しい残暑の所為ばかりではない。四囲を見渡しても、まるで逆回転するように同じ過ちを繰り返そうとしているからだ。
最近は作家・高橋源一郎にいい感じを抱いている。この高橋が報道ステーションで、尖閣諸島に香港の活動家を上陸したことにこんなコメントをした。「そんなことは、どうでもいい問題のように思う。領土という国家が持ち出した問題のために、もっと大切な事柄が放っておかれることの方が心配だ」。その反応である。帰宅すると、ツイッターに「非国民」「国賊」「死刑だ」「お前も家族も皆殺しにしてやる」といった数えきれない罵倒と否定の言葉が躍っていた。高橋のしなやかな反骨が受けて立つ。国家と国民が同じ声を持つ必要はないし、そんな義務もない。誰でも「国民」である前に「人間」なのだ。そして「人間」はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか「国民」になれない国は「ロボットの国」(ロボットに失礼だが)だけだーというのが、ぼくにとっての「ふつう」の感覚だ(朝日新聞8月30日)。
戦後67年は、わが齢(よわい)でもある。この年月は何であったのだろうか。今更と口を噤みたいのだが、なぜ安倍晋三の出番が来るのだろうか。保守のシンボルというが、韓国や中国首脳を前にして緊張のあまりトイレに駆け込まざるを得ないのが目に見えるではないか。また首相の野田がなぜ「(慰安婦問題で)強制連行の事実を文書で確認できなかった」と繰り返すのか。昭和20年8月朝鮮総督府では、すべての文書を焼き払えと噴煙が絶えることはなかったのである。文書がなければ、何事もなかったのか。村山談話、河野談話が対話、和解の出発点である。
はてさて、松下政経塾も、維新の会も、極北の地・フィンランドに拠点を移したらどうだろうか。
ユバスキュラ大学