患者学・柳田8ヵ条とホームレス

富山県が生涯学習の一環として展開する県民カレッジ。その夏期講座のトップの講師が柳田邦男さん。これは見逃す手はないと思って出かけた。当日受付で30人枠があるということだったが、ギリギリで滑り込むことができた。教育文化会館は定員が700人強。空席が全く見当たらない盛況だ。平均年齢は65歳ぐらいか、男性がやや多いかなという感じ。男性が多いのは富山が初めて、と講師も驚いていた。富山の高齢男性はちょっと変わっているのであろうか。

柳田さんは昭和11年生まれ。評論家であり、ノンフィクション作家。NHKに入り災害、事故、航空問題に携わる。連続航空事故の謎を追った作品「マッハの恐怖」で大宅壮一賞を受賞。退社後は人間の生と死をテーマに「ガン回廊の朝」「死の医学への日記」そして「犠牲 わが息子・脳死の11日」を著している。

今回の演題は「豊かな生 豊かな死のために」。人間誰しもいずれ死ぬと承知しているが、これだけは経験談を聞くわけにはいかない。したがって誰も不安であり、覚悟は決めていても心もとない。生きることが、そのまま死へとつながっているのが真実だ。生老病死が避け難いのであれば、自分で自分の死を創る時代だ、と彼はいう。そして柳田流の「自分の死の創り方」はこうである。もちろん突然死の場合はこうはいかないが。?闘病記を読むこと。または看護婦対象レベルの医学書に眼を通すこともいい。これによって病気の進み具合などを自分なりにイメージし、生活していこうというもの。?死にいく人と心から関わる体験を持つこと。親とか連れ合いとかを看取って死というものの一定わかること。?最後の目標(自己実現)なるものを持つこと。富士山に登るとか、ライフワークの句集を完成させるとかだ。?死のネットワークを構築しておくこと。子供ではなく、いわば気の合う、自分をよく理解してくれている友達ネットワーク。?人生の完成にふさわしい医師を決めておくこと。?我慢せず自然に喜怒哀楽を表現すること。?リビング・ウイル。延命治療は要らないなど明確に伝えておくこと。?自分の死亡記事を書いておくこと。できれば戒名も。これが病んでから死ぬまでの、いわば柳田8カ条だ。

ところがここまで聞いた時、ちょっと違うな、という疎外感を感じた。会場を見渡すと、それぞれにメモを取り、しきりに肯いている。どうも違う。死を大袈裟にし過ぎていないか、という疑問だ。

私のこの時の精神状況もちょっと特殊といえた。実はこの前日、借りたビデオを見て衝撃を受けていた。60歳過ぎのホームレスを捉えたテレビドキュメント「老いて追われて」。知人の長男で、読売テレビでプロデユーサーをしている石黒新君の作品。ホームレスは死を創れない。創るとすれば自死だけだ。いわば柳田8ケ条の対極にある。まるで虫けらのように、この冬が越せるかどうか、という段階で亡くなっていく。65歳まで何とか生き延びて、生活保護認定を受け、畳の上で死ねる環境を得るかどうか。1日を空缶拾いに自転車をこぎまわり、ようやく手にする1000円。これで1日を過ごす人たちだ。

これと比較してこの会場にいる人たちはなんだ。この夏期講座は5回行なわれ、受講料600円。職員、施設、謝金などなど、ほとんどが税金で賄われている。そしてその聴衆は、というと一見したところ、ほとんどが公務員OBと思われる。十二分に老後が保障された人たちだ。この落差はやはりおかしい。ここの聴衆は過剰な行政サービスを受けていることになるまいか。こうした行政のイベントは、NPOにまかせてもよい時代がきている。知事は行政サービスの低下を避けたいと民間委託に乗り気ではないが、地方財政の逼迫を考えるとのんびり構えているわけにはいかないと思う。払える人はその対価をきちんと払う。そんな誇りを持つ時代だ。あわよくば、の貧しい品性はよくない。

と思うと、いたたまれず最後の詩の朗読を聞かずに席を立ってしまった。

演出十分の死というのも、何ともくさくていただけないな、と思う。ある日突然も悪くはない。

忘れずにひとつだけ。国立ガンセンターのホームぺージには最新の癌情報が記載されているから、ぜひ参照されたいとアドバイスがあった。

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