作家と編集者との年齢差は、作家の方が10歳くらい年上のほうが、最もやりやすい、というのが渡辺淳一。編集者が60歳で定年を迎えるとすると、作家は70歳。こちらも、ほぼ定年というか、仕事においても一区切りつく年齢に達しているからちょうどいい。だから自分より10歳くらい若い、よき編集者に出会えるかどうかが、作家にとってかなり大きな問題である、ともいう。
わが国で初めて文芸誌の女性編集長になった宮田毬栄(まりえ)の「追憶の作家たち」(文春新書)を読むと、なるほどそうなのかと思えてきた。宮田が中央公論社に入社して初めて担当したのが松本清張。スチュワーデス殺人事件の犯人がキリスト教サレジオ会に属する教会の神父であった、という実際の事件を参考に、カトリック教会の闇に挑もうとしていた。ベストセラー「黒い福音」である。宮田は報道されたすべての新聞・雑誌記事を集め、担当の刑事からまでも情報を蒐集し、提供していく。二人で杉並区の教会周辺をカメラ片手に、丹念に歩き回る。こうした現場を踏む作業が小説のディテールに生かされて仕上がっていく。「明日からはひとりで頼む」といわれて、刑事か新聞記者かと間違うほどに、取材原稿を作っては次々と手渡して行く。すると、もっと過度な注文が出る。執筆の時間が迫っており、躊躇している余裕はない。ひたすら仕える。作家と編集者とは、こんな関係である。
ところが中央公論社が発行する日本文学全集から、松本清張の名前が落ちる事件が起きた。編集員である三島由紀夫が、徹底した清張文学批判をして外したのである。中央公論が予定していた清張全集が文芸春秋の仕事となり、清張は三島及び純文学作家への激しい感情的な反発をあらわにしていく。三島の自決は才能が枯渇して、書けなくなったからだとして譲らなかったという。そんなの葛藤の中でも仕事を運ばねばならない。清張の亡くなる寸前に、清張の代わりに宮田がヨーロッパに取材にゆき、それに基づいて清張が書くという企画が持ちあがっている。それほどの信頼感であった。
作家同士のさや当ても凄まじい。「埴谷雄高は武田泰淳の物心両面の継続投資によって生き延びている」という江藤淳の発言に激昂する埴谷。大岡昇平も、大江健三郎も江藤とはうまくいっていない。「江藤は汚い手を使うから」とまで、大岡はいう。編集者・宮田は気軽に相槌を打つわけにもいかなく、苦労する。また宮田はさりげなく、社内での葛藤も述べている。ヤスケンともてはやされた社の同僚・安原顕についてだ。男の嫉妬である。遠くで見ていると見逃してしまう。しかし、机を並べてみて初めて気づき、愕然とする。文学に対してすら、初めに嫉妬があった、とはいえないだろうか。「嫉妬」はあるいは彼を苦しめる無意識の病いだったのではないか、とまでいい切っている。
最大の仕事は、最初の読者であるということ。「私は推敲に痩せる。しかし、推敲こそ至福のものだ」といったのが北原白秋らしいが、苛烈なほどの推敲をくぐりぬけて、作品は出てくるのである。編集者が作家の生原稿を手にして、その推敲の跡をたどるのが最も楽しい時間ともいう。渡辺淳一なんかは気さくな方だから、作家といってもそれほど自信があるわけではないので、最低用語や用法の間違いぐらいは指摘してくれなくては困るという。しかし自尊心の強い、狷介な江藤淳のような男だったら、そうはいくまい。ただの使い走りに徹した方がよいかもしれない。そうした勘どころをどうするかも編集者の才能だ。しかし、書くというのは孤独な作業。自分の書いたものを他人がどう思うか、気になるところ。そんなところから、声のかけやすい10歳下がいいといっているのかもしれない。
そして編集者の最後の仕事は、作家の死に関わること。もちろん、葬儀の段取りまでするのが編集者である。
作家と編集者