ネタがない、ネタがないと言い、新聞をひっくり返し、雑誌を開き、ウロウロとネタとなるべき何かを探し、再び、ない、ないと騒ぎ、おでこをぴたぴたと打ちつつ書斎へ消えていったこともしばしばでした。堀田善衛が筑摩書房のPR誌「ちくま」に12年余にわたって連載した巻頭エッセイの締め切り間際の焦りようである。毎月、400字詰めで6,7枚の原稿を書くにあたっても、決してすらすらと書いていたわけではありせん、と娘の堀田百合子さんが述懐している。ほう、堀田善衛にしてそうなのか、とほっとさせられた。
更に続けて、書斎の引き出しのあちこちから使用済みのパスポートが13冊も出てきた。56年のインド、ビルマ、香港行きをはじめとして、89年の西ドイツ、ベルギー、フランス行きまで、出入国の印を数えていくと、判読できるものだけで36カ国。「物見遊山はしない。仕事に必要か、自分が行くべき、見るべきと思ったところだけ行く。どこまでも行く」が旅の鉄則だ。直接見る、聞くというだけでなく、地続きを体感し、空気感を得るということも含まれている。驚き、呆れ、当惑し、歴史と絡み、ネタがないと騒ぎつつも、物事が十分に発酵するのを辛抱強く待つ、その時間の堆積が連載エッセイの12年間だった。そのエッセイセレクションが「天上大風」(ちくま学芸文庫)と題して上梓された。文庫にしては、ちと高い。千円札を出して、おつりを待っていたが、遠慮がちに1470円といわれ、慌てて500円玉を取り出した。
「この10年」と題して、急に知己の追悼ネタ・エッセイが始まる。77年から87年まで、主としてスペインに住んでいた。訃報が届いても、葬儀に出る手だてもないままに、公園や広場のベンチに腰をおろして、死者の面影を立ち上がるのを目に浮かべながら、様々にもの思いに耽った。「ちくま」の読者諸氏にとっても、追憶のよすがにもなろう、といい訳めいている。続々々々々、しめくくりと合計41人だ。山田風太郎の「人間臨終図鑑」を思い出したが面白い。豊かな交友こそ人生なのだとつくづく思う。深沢七郎が「風流無譚」事件で失意の時、自ら求めて慰めに出向いている。大菩薩峠に匹敵する大著を、君なら書けると嗾かし、歌まで歌っている。ギターの名手であった深沢のコンサートに、一緒に舞台に上り、宮城道雄の「春の海」を合奏してもいるのだ。堀田はギターも弾けたのである。宇野重吉のくだりでは、築地小劇場で久保栄の初演「火山灰地」を演ずる23歳の宇野を見ている。宇野は中野重治を尊敬しており、舞台名は“野”“重”を拝借しているエピソードも。
そういえば、「スタジオジブリが描く乱世―堀田善衛展・富山」が、1月23日から高岡市美術館で開かされる。昨年、県立神奈川近代文学館で開いたものをそのままもってくる。なぜ、スタジオジブリかだが、宮崎駿が堀田作品を読み込んでおり、「僕らは、堀田さんが最後に残してくれた言葉を胸に生きていくしかない」とまでいっており、映画化を前提にした作成されたイメージボードが展示されるらしい。堀田の原作、「定家名月記私抄」と「方丈記私記」から発想された中世の日本を描く壮大なスペクタクルといったところか。
さて、わがパスポートである。2月22日で失効することを思い出した。この10年間ということになるが、余白がいっぱいである。01年釜山、05年済州島、06年ニュージーランド、07年ソウル、北欧で、合計6カ国。とても及ばない。堀田は70歳にして、ラテン語に独学で挑戦している。それに較べて、わがハングルはどうか。恥ずかしい限りである。
参照 「ちくま」10年1月号
天上大風