寒中見舞いも味わい深い。忘れた頃に届くのもいい。昨年秋に夫を亡くした新湊小学校同級の女性Tは、亡妻ともPTAなどで親しくなり、付き合いは切れずに続いている。年賀欠礼も構わずに、賀状を書いた。やもめの先輩として、励ましておきたかったのだ。「ついにおひとりさまの生活になりました」とあり、「龍天に神の身許にゆきし夫」という句が添えられてあった。この1枚のはがきから、同じ75歳である彼女の人生をたどってみたい。福祉の黎明期を駆け抜けた女がいた。伝えられる時に、伝えておかねばならない。
なにしろ200人以上在籍した新湊小で、女子で4年生大学に進学したのは彼女だけである。しかも「福祉の東大」といわれる日本社会事業大学を選んでいる。「どうして?」という疑問を持ち続けていた。お互いが大学に進学したのは、東京オリンピックの1964年。こちらの方は新宿界隈を拠点に遊び歩き、伊勢丹の面した明治通りをトロリーバスが走るのを好奇の目で眺め、一度乗ってみたいと思っていた。池袋―渋谷間で、ひょんなことから渋谷に用事ができ、ここは山手線よりトロリーバスにした。原宿を過ぎたあたりで窓外に目をやると、でっかい看板で「日本社会事業大学」とある。「え、あいつの大学ではないか。こんなところにあるのか」と初めて所在を知った。東郷神社の境内を歩いて、通学していたという。
1946年、戦災孤児、原爆の後遺症、戦死した兵士の母子家庭、引き揚げ者などの福祉救済を目的に、厚生省が設立した。58年に学校法人日本社会事業大学となったが、授業料などほぼ国立大学といっていい。福祉指導者を輩出してきた。89年に清瀬市に移転し、今は原宿警察署になっている。
ところで、大学情報がほとんどない新湊高校でこの大学を選んだ理由だ。アンドレ・ジツドの「狭き門」を読んだことと、新湊西部中の塩谷先生の影響だという。汝狭き門より入れ。それもあるが3歳上の姉の影響だろうと思っている。日本女子大家政学部食物学科に両親の反対を押し切って進学し、千葉県庁に職を得ている。長女が家を継がないということ。親思いのTは、富山・大沢野のセーナー苑に就職する。知的障害児を持つ父母たちが立ち上げた社会福祉法人の先駆け。ほぼ10人の入所者に心血を注ぎ、官民格差に怒りを覚えて、初代組合委員長を買って出た。結婚相手は職場の同僚であり、もちろん婿入りだ。それから9年、入所者は300人に増えた。
人生はわからない。実家が営んでいた魚の加工業が破綻したのである。思い悩んだ末の結論は新湊からの脱出。姉が住む千葉県我孫子市に新天地を求めた。家も手放し、飼っていた柴犬はわが家にやってきた。最初に手掛けたのが宅老所。当初は措置法に基くもので、2000年の介護保険制度の導入でNPO法人としたが、釈然としないといっていた。「措置から契約へ、恩恵から権利へ」との掛け声だけで、貧困者が取り残されるという疑念だったが、それが現実となっている。その後のいろいろな苦難を体力の限りと、周辺の方の善意で乗り切ってきた。100歳を超える実母を看取り、レビー小体型認知症を患った夫も看取って、ついに誰にもめぐってくる「おひとり様」になった。
こんなこともあったという。6年2組の担任であった西野龍雄先生が我孫子の施設にひょっこり訪ねてきた。あんたの賀状の住所を見て、娘の嫁ぎ先の近所なのを知り、いつかは訪ねようと思っていた。照れくさそうに話し、元気な様子に安心したといい残して帰っていった。恩師の存在もありがたい。
さて、わが理念である「在宅ひとり死」もいばらの道だが、ひとり行くしかない。