数学とは何か?

 3月7日、朝刊訃報欄に目を通していると、「菅谷孝 79歳」が飛び込んできた。住所も記憶と同じ、新湊小学校同期の「すがたに」に間違いない。あいつも逝ったのか。いい頃合いでもあると、自分に納得させる。富山大学理学部数学科の教授を務めていた。新小同期は4クラスで、210人前後だが、大学教授は明治国際医療大学(旧名・明治鍼灸大学)の矢野忠と二人だけである。矢野の場合は想像の範囲内だが、菅谷の場合はどこでどう間違えたのか、となる。新湊は小さな町であり、どんな家で、どんな家族か、みんな知っていた。

 母子家庭で弟が一人いて、母親は親戚筋の製材所で働いていた。小学校の時は、剽軽なところもあり、時にいじめの対象になっていた。成績は上の中というところで、算数が得意というわけでもなかった。中学に進んでから、数学模試などで、時に高位に付けて、みんなを驚かせたらしい。1960年頃の高校進学率は50%前後、菅谷は高岡工芸高校に進学した。家計を慮っての判断だったと思う。友人に聞くと、中学時代の数学教師の励ましが続いていて、とにかく数学だけは頑張れといわれ、彼の負けん気に火が付き、賭けに出たのであろう。富山大学には当時は夜間コースがあり、選択肢となった。当時の国立大の授業料は県立高校と変わらなかった。そこでも頑張り抜いて研究室に残り、教授ポストを手にしたのだ。ちょっとした立志伝である。

 さて、数学とは何か。今だから言えるのだが、哲学することだ。ササっと計算して終了じゃなくて、じっくり証明を読んで論理を追うのであるが、そこに直感というか、ひらめき能力が不可欠なのだ。つまり仮説の正解をイメージして、解いていくのである。菅谷のレベルがどうだったのか推測できない。限りある命というのも時にありがたい。真贋わからぬまま、人生を終えることができる。黄泉の国で「みんな、だまし切った」と笑っているだろう。

 その後の同期会には菅谷も出席していたが、功なり名を遂げたのに皆からは、昔の菅谷と変わらない扱いで晴れ晴れというわけではなかった。60歳を過ぎた頃に市民活動組織と関わりができて、富大の何人かの教授と知り合いになった。「菅谷とは小学校同期なんです」と聞き出すと、「あのやんちゃな」と返ってきた。教授会などでは、傍若無人で強引なふるまいだったらしい。

 ところで「大学への数学」を諦め、「中学への数学」を手元に置いている。「お前は小学校で燃え尽きたのだ。そこにしがみついている、哀れな男だ」という菅谷の声が聞こえる。「早くこっちに来いよ。数学とは何か、教えてやっちゃ」。

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