「もう少し時がゆるやかであったなら」。小椋佳の作詞で堀内孝雄が歌う「愛しき日々」は友のカラオケ定番、いまも心地よく聞いている。小椋の哀切にして絶妙な詞は胸を打つ。戊辰戦争を経ての明治維新から150年、「西郷どん」を中心に鹿児島、山口では盛り上がっているらしい。しかし、薩長の英雄史観に毒されてはならない。朝敵と汚名を着せられた会津の悲劇こそ、明治という国家の歪みを示している。その格好の好著といえるのが「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(中公文庫)。71年の初版から57版を重ね、名著刷新と新書の棚に並んでいた。幕府側の人材が新政府でも活躍した榎本武揚と並んで、柴五郎の苦闘の生涯を記憶に留めたい。半紙に細字の筆で綴られていたものを、編著の石光真人が生前の翁を訪ね、補足整理してまとめた。明治人の文体、リズムが気持ちよく響いてくる。
柴五郎は1859年(安政6年)会津若松に会津藩士の父のもと五男として生まれ、1945年(昭和20年)敗戦を見届けるように、87歳で没した。幼少時でも武家のしつけは厳しい。金銭は自ら手にすることを許されず、祭礼の日に限り許されるも、銭の支払いは自ら勘定して渡すを禁じられ、銭入れのまま商人に渡し、彼をして取らしむ習慣であった。さて、会津鶴ヶ城が火炎に包まれて落城するのを目にしたのは10歳の時。兄4人はそれぞれ戦いに赴いており、家を守る母たちは、残りし男子は五郎ひとり、何とか生かして柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪(そそ)ぐべきなりと、離れた山荘に下男と共に送ることにした。それを見届け、祖母、母、兄嫁、姉、そして7歳の妹の5人は薩軍の攻め入るのを聞くや、自害して果てた。
五郎たちはその後移封となった下北半島の火山灰地・斗南藩に移る。60万石から3万石への減封だが実質は7千石で、暮らしは過酷であった。納屋住まいは畳なく、障子あれど張るべき紙なし。板敷に筵を敷いて褥とするが陸奥湾から吹き付ける風は氷点下10度を超える寒さである。餓死、凍死を免れるのが精一杯で、野良犬を食さなければならない時、父はこう怒った。「武士の子たるを忘れしか。戦場にありては犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」。
絶望の中での曙光は廃藩置県の令で生まれた。斗南県となり更に青森県となった時に、細川藩出身で英明な野田轄通知事給仕として採用されたのだ。給金を得たうえに更に家僕となって、視野がぐっと広がった。上京のチャンスも野田が陸軍会計に転じる機に訪れ、陸軍幼年学校を受験、合格することになる。五郎15歳。教官はフランス人が務め、通弁を入れながらだがすべてフランス語で行われた。基礎的な学力がなく、成績末尾に低迷するも、これも憎き薩長のためと昼夜を分かたず励んで巻き返す。薩長土肥が官界の要所を独占し、彼らの頤使(いし)に甘んずる他なしと思っていたところに、西南戦争がぼっ発する。「芋(薩長)征伐仰せ出されたり。めでたし、めでたし」と日記に記し、多くの会津人があらゆる手を講じて政府軍に加わり、積年の思いを晴らした。遺書はここで「この一文を献ずるは血を吐く思いなり」と終わっている。
柴はその後、大本営陸軍部参謀となり、北京駐在武官に転じた。その時に義和団事件に遭遇する。この襲撃から逃れようと各国公館の人間4千名が籠城避難したのだが、清国正規軍が遠巻きに見守る中で判断を誤れば一大悲劇になる。そんな状況で、柴は沈着冷静に義和団、清国正規軍に対応して4千名を解放したのである。日本の中国侵略政策をその当初から見ていた芝は、日本の敗戦を早くから予言していた。
思えば、原発被害で福島の地を追われた人々は、150年前に会津の地を追われた人々と重なる。錦の御旗を掲げた薩長の末裔が再び原子力ムラを形成し、原発を推進してきたといっていい。フクシマはもっと怒っていいのだ。薩長の末裔のDNAを色濃く引き継いでいるのが現政権かもしれない。
早乙女貢のライフワークともされる「會津士魂」は更なる執念の本である。