11月20日、富山の空は雲ひとつなく晴れわたり、冠雪した立山連峰を神々しく際立たせていた。何年ぶりだろうか、高村光太郎の「秋の祈り」がよみがえった。こんな時は富山空港の屋上に立って、さえぎるものない立山連峰を見渡す。「秋は喨々と空に鳴り 空は水色 鳥は飛び 魂いななき 清浄の水こころに流れ こころ眼をあけ 童子となる」。
64年秋、上京してようやく慣れ始めた余裕からか、ひとり神宮外苑に足を延ばし、この詩を口ずさんで涙を流した日を思い出した。人恋しさもあったのだろう。あれから60余年が経っている。そして確実に、終わりの時期が迫っている。11月9日、最後の仕事と思って手がけたシンポジウム「北東アジアの平和を考える」が、117人の参加を得て、無事終わった。この秋空はそれを祝ってくれているのかもしれない。みなさんの気配りもあり、主催者あいさつをさせてもらった。それを伝えて、今回の報告にしたい。
オールとやま県民連合の世話人をしている。言い出しっぺということで、このシンポを開くまでの経緯を話したい。この5月29日に、旧知の方から誘われて、いわゆる国会の院内集会に参加した。テーマは「なぜ、いま日朝国交正常化が必要か」。講師は岡本厚・元「世界」編集長、和田春樹・東大名誉教授、田中宏・一橋大学名誉教授で、大きな感銘を受けた。その時、ぜひ、これを富山でやりたいと思い立った。
南北朝鮮の韓半島にこだわるのは、45年8月30日に、あろうことか朝鮮全羅南道光州で生まれているからだ。父は1933年に渡っているのでほぼ12年、彼の地で植民地支配の特権を享受してきたといっていい。おまけに朝鮮戦争特需のお陰で、引揚者住宅から抜け出し、闇商売で始めた古着の担ぎ屋から、衣料品店を開業することができた。この衣料品店の稼ぎで私の大学進学が可能になったわけで、いわば、植民地支配の最後の申し子ともいえる。
退職して、ふと自分の人生を振り返ると、この時の負債をまだ返してはいないのではないか、と思えた。忘れもしない2015年8月30日の70歳の誕生日だった。安保法制に反対する市民集会が富山駅前であり、初めて参加した。これがオールとやま県民連合のスタートとなり、私の活動拠点としてきた。ほぼ10年間、安倍反動政治に向き合ってきたわけだが、とりわけ拉致問題では、まるで鬼の首でも取ったように、安倍三原則を振りかざす姿を煮えくり返る思いで眺めていた。拉致被害家族が一言でも、朝鮮人強制連行に言及してくれていたら、空気は一変しただろうと今でも思っている。
そんな背景もあり、3人の先生方にお願いしたところ、揃って快諾をいただきました。加えて、オールとやま県民連合のみなさんには、主催を引き受け、組織挙げての協力をいただいた。心から感謝したい。
そんなところに、安倍後継とはばかることなく語る高市政権が発足し、さっそく北に首脳会談を申し入れ、「手段を選ばず突破口を」と語り、任期中に解決すると大見得を切った。どんな論理で北朝鮮に迫っているのか、興味深々だ。まして、国会答弁で大変なミスを犯し、日中関係は抜き差しならない。このシンポが高市政権に対抗していく大きな一歩になることを期待したい。