「我思う、ゆえに我あり」。このデカルトの命題を否定することから、始まった。自然科学による、生命への探求だ。それまでの自然科学では、エネルギーと物質についてはある程度わかっていたが、生命については未知の分野であった。宇宙が生まれ、それから生命が誕生したのであって、その逆ではない。デカルトでは、生命が先にあって、宇宙を認識するということになる。物質から生命は生まれ、その生命が精神活動を行うのである。いわゆる生命科学、分子生物学の誕生だ。
その草分けである渡辺格(いたる)が3月23日に他界した。90歳。分子生物学者、慶応大学名誉教授。87年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進の恩師でもある。京都大学の大学院生であった利根川に、カリフォルニア大学・生物学部大学院への留学するように薦めたのだ。
生まれつき虚弱児であった渡辺は、徴兵をも免れていた。幼少の頃から、死への恐怖をいつも感じていた。物理化学を学び、デカルトを信じていたが、戦後の混乱がその哲学的な悩みを、科学者の実践として究めよう、と大胆な発想の転換を促した。争いを起こす人間の心を知りたいとする生命科学である。
人間は死ぬ運命にある。宇宙が死に向かっている限り、あらゆるものは死に向かわざるを得ない。そういう大きな流れの中で、いわば死への恐怖を認めながらも目を逸らさず、物質から生命、生命から精神、さらにその先の何かに、自然科学は向かわなければならない。そう結論付けたのである。
戦後アメリカから文献がどっと入り込んできた。渡辺はそれらをむさぼり読む。そして、DNAが遺伝子で、ウイルスが物質だとすれば、この二つを研究すれば、物質から生命への道が開けると確信した。48年、北海道のニシンの白子から、木綿糸状のようなDNAのかたまりを遂に取り出すことに成功する。しかし、遠くアメリカに及ばない。
ウイルスを結晶化させることで、ノーベル賞を受賞したスタンレーとは手紙でやり取りしていたが、その彼からアメリカに来ないかという手紙を受け取る。カリフォルニア大学のウイルス研究所だ。その留学2ヵ月後の53年4月、ワトソンとクリックにより、DNAの二重らせん構造が発表された。ポジとネガの関係にある2本の鎖からできており、ポジからネガができ、ネガからポジができる。誰にも納得がいく発見であり、53年をしてAD元年と呼ばれている。生命と物質の断絶がなくなったのである。とにかく、アメリカでやろうと考えてきたことが、わずか2ヶ月を待たずして解決されてしまった。受けた衝撃は大きかった。
このワトソンに会った時の渡辺夫妻のやりとりである。ワトソンは両足に全く違う靴下をつけていた。「あんな人と競争したってどうせ負けるんだから、学者なんかやめなさい」。渡辺夫人はワトソンの天才ぶりを、この一事で悟ったのである。
それからである。遺伝子組み換え実験の重要性を見抜いた渡辺の転身ぶりは素早かった。ブルドーザーのように官僚、関係者を説得してまわり、その指針作りに精力を傾けた。日本の分子生物学の発展の基礎はこうして確立したのである。利根川も語っている。「自分の研究に利用するのではなく、若い研究者の将来を考えて助けた。保守本流にならない名伯楽だからこそ、人が集まって慕った」。
この渡辺を富山に招いたことがある。佐々学・元富山医科薬科大学長との対談をセットしたのだ。ふたりは16年生まれの同年で、東大同期であった。「佐々君はこんな富山にいる人間ではないんだ。東大医学部トップの成績で、恩賜の金時計組みなんだ。今ごろは日本学術会議のトップとして活躍してもらっても何ら不思議ではない男だよ」。佐々が席を外した時にこう語ってくれた。言外に、もっと彼を大事にしてほしい、との意味なのである。昨年4月10日に佐々学は黒部市民病院で亡くなっているが、晩年のわびしさが気になって仕方がない。
注・「なぜ、死ぬか」渡辺格著(同文書院刊 1000円)
物質から生命へ