年を取ると、人に会うのも億劫になる時がある。別に人間嫌いになったわけではない。会えば会ったで話は尽きないのだが、ふとひとりになりたいとの思いがめる。そんな中年の男はほぼ演歌が好きだ。時代をその時の流行り歌で記憶している。昭和40年前後の20歳前後。ひと恋しくてならない時期。ようやくに酒をおぼえ、居酒屋に。新宿区戸塚2丁目交差点の「最上屋」。いつもいつものメンバーで連れ合って。ある時、カウンター同席の年配の人が江差追分を歌いだした。哀調が体全体を包みこみ、涙が出そうになった。鮮明な記憶である。「それじゃ学生さん。一緒に歌おう」といって、北島三郎の「函館の女」を何度も歌いこんだ。演歌がはじめて自分の中に入ってきた記念すべき日である。‘艶歌の竜’「高円寺竜三」を記憶されているだろうか。といっても、実在の人物ではない。五木寛之が「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞。鮮烈デビューをしたのが昭和41年。その翌年小説「艶歌」で登場した人物。テレビ朝日が「海峡物語」でドラマ化して、一躍演歌誕生の舞台裏が見えてきた。モデルはクラウンレコードの馬渕玄三といわれている。コンピュータを駆使し、徹底したマーケティングを行い、売れる曲の要素を数字化してレコードを販売していく近代化の対極にいる男。人との出会い、自然と人間との営み、交流を大事にし、情熱をぶつけ、人情に溢れ、テレ隠しの破天荒な振る舞いをしながら手作りレコードを目指す。でもプロデューサーは組織の一員。ヒット作を連発していれば、大目にも見てくれるが、いったん落ち目になると鋭い批判非難の刃が突き刺さる。プロデューサーとは、作曲家、作詞家を束ねる位置にいて、発売するか否かの絶対的な権限を持つ。自らの触覚を頼りに、時代を読み、ヒット曲を出すのにしのぎをけずる。しかしそれまで。印税が入り、世の人に彼の歌といわれるわけではない。馬渕玄三は学徒動員組みの戦中世代。昭和30年から50年にかけての歌謡曲黄金時代に第一線に身を置いた。自分では譜面が読めなかった。その後の時代はご覧の通り。洋もの一辺倒で、歌謡演歌は衰退の一途。高円寺竜三も組織の中で身の置き場がなくなっていく。そして、自ら「あばよ」と時代に別れを告げる時がやってくる。前進座がそんな男にスポットをあてて、70周年記念公演に仕立て上げた。「旅の終りに」原作・演出=五木寛之。演ずるのは‘艶歌の竜’に中村梅雀。近代化路線を推進する経営者に嵐圭史。数年振りに会う「最上屋」仲間と、いい記念だからと見ることにした。山崎ハコが在日韓国人二世の歌手を演ずるなどそれなりになつかしかった。その後カラオケで歌ったのはいうまでもない。ちなみに馬渕玄三が手がけ、世に出したのは「ひばりの佐渡情話」、島倉千代子「からたち日記」、水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」、小林旭「さすらい」、山本譲二「みちのくひとり旅」など。「」とは12世紀、後白河法皇が編纂した当時の世俗の歌謡集。梁塵とは建物の上のこと。優れて巧みな歌を聞くと梁上の塵が踊り出すという古代中国の故事にならってのもの。平成梁塵秘抄は五木寛之が副題で付けた。
追記/講演会のお知らせ
「テロの裏にあるものーなぜアメリカがねらわれるか」
講師/小林和男NHK解説委員
11月26日(月)18:30~19:45
黒部市・コラーレ入場無料。
ぜひおいでください。