忘れやすい日本人に、忘れさせてなるものか、と後から襟髪をつかんでいる人がいる。84歳になる羽田澄子映画監督だ。自らも大連生まれで、満州からの引き揚げ経験を持っているが、当時はソ満国境にいた開拓団の悲劇まで想像することが出来なかった。中国残留日本人孤児の訪日調査をきっかけに知ることになり、重いものを背負い込んだ。そして今「嗚呼 満蒙開拓団」を撮り終えて、ようやく肩の荷を降ろした気分と話す。
昭和25年、自由学園の恩師でもあった羽仁説子の紹介で、岩波書店子会社の岩波映画製作所に入社する。羽仁進監督の下で助監督を務めた後、監督デビューを果たし、ドキュメンタリーを中心に60年間活動を続けてきたことになる。
4月25日、黒部市・コラーレでの「世界の名画を見る会」に出向いた。上映を前に約1時間、羽田監督は膝を痛めているといって、椅子に座って講演を行った。予想に反して、当日券売りに列が出来て、ほぼ満員という状態だった。
満蒙開拓団悲劇の歴史的背景はこうだ。昭和4年ウオール街の株暴落で始まった世界恐慌は収まることはなかった。その渦中に満州事変を引き起こし、併合した韓国を兵站基地に日本の中国侵略が本格化する。満州国という傀儡国家を打ち立て、王道楽土、五族協和という空疎なスローガンを掲げた。一方、国内での恐慌はとりわけ農村に大きな打撃を与え、欠食児童や女子の身売りが日常茶飯となる深刻なものだった。まるでこの貧窮の農村を救う切り札として、当時の広田内閣は100万戸500万人という「満州移民計画」を掲げた。「行け、満州へ。拓け、満州を」である。この計画は実は関東軍によって立案されたもので、対ソ戦略と表裏をなしている。対ソ前線に開拓団を配置すれば、戦略道路、通信網が整備され、飲料水、食糧が確保されるからだ。そして30万人に及ぶ開拓団が満州の地を踏んだ。
敗戦目前となった昭和20年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻した。開拓団の男は徴兵されており、残されていたのは老人と女子供である。頼みの関東軍は南方戦線に駆り出され、もぬけの殻状態となっていた。ソ連軍の第一陣は囚人部隊で、暴虐の限りを尽くす悲惨きわまりないものだった。加えて現地人の報復である。そんな中で、集団自決、飢えと栄養失調、発疹チフスによる病死、長い逃避行で8万人が亡くなり、5000人近くが残留孤児、残留婦人となった。日本国の犯した、償い切れない罪業である。
見逃してはならない情景がある。いち早く敗戦とソ連侵攻を知った軍部は軍人家族の帰国を優先させたのである。列車に、トラックに、その家族とあふれる荷物を積み込みながら、何千人の疲労困憊の開拓難民を置き去りにして、走り去った。最も胸に突き刺さる証言だった。軍隊は国民を守りはしないということだ。
満州・方正(ほうまさ)に日本人公墓がある。難民と化した人たちは守ってくれると、関東軍のいる方正にたどり着いたが、待っていたのは酷寒の中での飢餓と病だった。苦しみ亡くなった5000体近くが眠っている。誰が立ててくれたのか、だ。昭和38年、国交以前の中国政府が建立してくれたのである。周恩来の「開拓団は、日本軍国主義の被害者である」という思想の実践といっていい。
さて、現実である。普天間問題の本質は、中国の膨張にどう対処するかという安全保障の問題に尽きる。日米同盟を強固なものとして、対抗するしかないとするのか。周恩来、胡耀邦、趙紫陽に連なる中国の革命世代が残したヒューマンなものを信じて、外交課題に全力を挙げて取り組むのか。そんな論議が前提にならなければならない。映画会場でのすすり泣きが耳から離れない。
「嗚呼 満蒙開拓団」