うつ病を経験した後輩が、クスリだけに依存する治療はおかしい。そうもらしていたが、この6月にロンドン本社の巨大製薬会社グラクソ・スミスクラインが「弊社が製造販売するパキシル錠を誠に勝手ながら諸般の事情により年内を目途に販売を中止させていただくことになりました」と発表した。パキシルは、日本の抗うつ薬市場を一挙に押し広げた起爆剤だった。従来の抗うつ薬と違って、副作用が軽減されると謳い、2000年頃には150億円前後だった国内抗うつ薬市場が07年に1000億円に達し、そのうち半分の500億円をパキシルが占めた。一方で、パキシルは18歳未満の重いうつ病患者には「有効性が認められず、危険性が大きい」と03年に使用が禁じられており、米国で刑事告発されて30億ドルの和解金を支払っている。
08年に自死した九州に住む24歳の女性看護師だが、処方された向精神薬の総量は、ひと月余りでパキシル10mg14錠、20mg46錠、デパス0.5mg69錠、アモキサン10mg3錠に加えて睡眠薬が加わる。明らかに多剤処方とみられる。
一片の販売中止で済まされる問題ではない。日本では欧米でうつ病と診断される抑うつや不安の治療はほぼ行われていなかった。精神科医は統合失調症や生活に困難をきたす重度のうつ病しか診ず、カウンセリングも普及していなかった。日本では処方薬の広告は禁止されているが、製薬会社が行う啓発運動は許されており、パキシルの発売を前にして、カネに糸目をつけない国際フォーラムが大々的に開催された。それを機に欧米の「精神疾患の診断・統計マニュアル」が若い精神科医に受け入れられていった。「うつは心の風邪」「適応障害」といって、うつ病患者は増え続け、20年には170万人を突破し、抗うつ薬の市場規模は1200億円台をキープしている。病気が創り出されて、薬が処方されていく。薬を止めようとしても、急にやめると危険だとされる。そんな薬漬けマーケティングの虚妄に気付かなければならない。
新薬を医療の進歩と受け入れてきた考えそのものが大きな誤り。中村桂子のいう「地球上には多様な生きものが暮らしており、それらは40億年以上の歴史をもっていること、そして人間は生きもののひとつであること」とする生命誌的世界観に立ち返るべき時に来ている。「人間は生きものであり、自然の一部」「生きものらしく自然体で暮らす」。薬は基本的に副作用をもたらす不自然なものと考えたい。
「生命誌」研究とは、生命科学の知識をふまえて、40億年前に地球に生物が誕生してから多種多様な生物の壮大な歴史物語を読み取る作業。また、博物学や進化論、DNA、ゲノム、クローン技術など、人類の「生命への関心」を歴史的に整理し、科学を文化として捉えている。
さて、馬齢を重ねて79歳となるが、唯一誇れるのは薬を飲んでいないこと。60歳以来、健康診断も受けていない。病気を無理矢理発見され、薬漬けにされるのではないか、と疑っている。晩酌を欠かさない自堕落な生活だが、腹痛、頭痛とは無縁で、幼児期の病弱ひ弱な体質が、年を経る毎に健康になっている。そして、アフリカで出現したホモサピエンスの命をつないできたひとりなのだと、日々実感している。そして、誰しも遅かれ早かれ死ぬということも。
参照/月刊「地平」9月号「薬と日本人」山岡淳一郎寄稿。「人類はどこで間違えたのか」中村桂子著。中公新書クラレ。