「おまえ、どもるんだな」。大学同期と東京駅大丸「すし鉄」で呑んでの帰り、エレベータの前でぽつんといわれた。こうして面と向かって指摘されるのは初めてである。実は幼児期大変などもりであった。足を持ちあげて「あ・あ・あ」と何度も踏み下ろすほどで、家族もとても心配していたようだ。託児所時代がピークで、小学校高学年ではそれほど出なくなっていた。自分でも自覚があり、どもりそうだなとの予感がある時もある。第一音の発生がスムースに出るといいのだが、そこでつまずくと尾を引く。意外と緊張する場面では出なくて、リラックスできる相手の時に出るようである。吃音予備軍であることは間違いない。映画「英国王のスピーチ」で言語聴覚士と格闘するジョージ6世を、自分とは無縁だとはとても思えなかった。
先日、どもる人たちが「べてるの家」と出会った、そんな副題をもつ「吃音の当事者研究」(金子書房)が本屋で目に入った。ひょっとすると自分もこんな風に悩んだかもしれないと思わず手にしたのだ。べてるの家とは北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点で、そこで暮らし、働き、ケアもする共同体でもある。それを立ち上げたソーシャルワーカーの向谷地生良(むかいやち・いくよし)が伊藤伸二・日本吃音臨床協会会長に招かれて、彼が主宰する「吃音ショートコース」に参加しての詳細な記録であるが、当事者研究がよく理解できる。
統合失調症と吃音はよく似ている。治す、治してあげる、治してもらうという関係では解決しない。治らなくても、どう生きるかで取り組んだ方がいいのではないという問題提起である。精神病の根源は脳にあるのか、心にあるのか、その論争が200年続くが結論を得ていないし、統合失調症についてもまだ全くわかっていない。吃音も紀元前300年に記録があり、人口の1%がそうであるのにわかっていない。
向谷地がこんな例を挙げている。統合失調症の影響で顔面を凄まじい力でバッティングする女性のMさんだ。新聞で事件や事故の記事を見た瞬間、これは私がやったのだ、私が悪いからだという着想が浮かぶ。内出血で顔をぶよぶよにして病院に運ばれても、看護婦の手を払いのけてやり続けようとする。鎮静剤を打たれ、投薬されて、頭にヘッドギアを巻かれる、そんな繰り返しをしてきた。彼女は優秀で、地域の進学校にトップで入学したが入学式だけで、高校に行けなくなってしまった。そんな彼女がべてるの家へやってきた。
ある日のこと、車に数人乗って移動していた時「頭が叩きたくなった」といったのである。病院に行くのもいいが、その前に当事者研究をしようと同乗者がいいだした。頭を叩く彼女を前にああでもない、こうでもないとの問答が繰り返され、そのうち誰かが脇の下をくすぐってみた。そうすると急に彼女が笑い出したのである。あれ、バッティングが止まってしまったね、どうして止まったの、笑ったかもしれないね、となった。「私はこの笑うということに気付くまでに5年間、入退院を繰り返してきたが、必要なのは、この現実を仲間とともに分かち合って、笑うことだったんだ」。精神科医の何人かにこの映像を見せると、「精神医学の敗北です」となぜか晴れやかな表情だったという。
その彼女はその後大学院まで進み、ソーシャルワーカーとして働き出したのだが、ものすごく不安だといっている。病気の勢いがなくなって、ただの人になったのだけれど、人とのつながりというものが薄くなって、いままで統合失調症で強力につながっていたものを失うのではないかと思うと、治りたくなかったとも考える。
吃音も同様で治さなくても、自分の言葉で、自分自身をどもりながらでも語ることの方がよほど大事だということではないだろうか。
はてさて、この本は白寿の母のそばで読んだ。嚥下能力が落ちてきて、命旦夕(たんせき)に迫るという状態。傍らにいてもらっても私はうれしくはないよ、キャンセルすることなくお前の思うことを予定通り進めておくれ、という母の声でもある。死の当事者研究かとも思う。
「吃音の当事者研究」