「このゆびとーまれ」の惣万佳代子がフローレンス・ナイチンゲール記章を受章した報を聞いて、思い起こしたのが上野千鶴子の大著「ケアの社会学」(太田出版)である。2000年の介護保険施行後10年がかりの調査に基く考察で、「このゆび」にも34ページを割いている。社会学からの観察眼は実に面白く、本質を突いていて、「社会的弱者に配慮する社会へ。私たちは希望を持ってよい」と断言する。持論である当事者主権論だが、それは取りも直さず高橋源一郎の「ぼくらの民主主義なんだぜ」(朝日新書)と気脈を通じており、「アベ政治を許さない」の潮流へと導くものとなっている。誰しも「依存的存在」にならざるを得ないのだから、一読しておくべきである。
「突っ走ってよかった。安定のことを考えたら今のこのゆびはないですから」と回想する惣万もいいが、副代表の西村和美の隠れたサポートがあったればこそ、と思う。サントリーの企業風土を描いた「佐治敬三と開高健 最強のふたり 」ではないが、ひとりでは最強になれないがふたりなら、というのが腑に落ちる。富山赤十字病院の看護師だったふたりだが、「退院許可が出ながらも家に帰れず、(病院から病院へと)転院する患者を何人も見送った」。家族が高齢者を受け入れられず、家に居場所がない高齢者が「社会的入院」を長期化させている厳しい現実に、それなら自分でやってやろう、と突っ走る。93年の開業には20年間勤めた退職金を充てる。一日に二人の利用で5,000円という日もあり、財政的には厳しく苦しかった。介護保険が経営を軌道に乗せたといっていい。しかし、待ったなしの当事者ニーズに応えての行動力、行政の縦割りを崩し、子どもからお年寄りまでの共生型を実現させた粘り強い交渉力、いつでも誰でも受け入れる、申し込みを断らないからウエイティングもないとする型破りの突破力を忘れてならない。
ボランティア創業を自発性、無償性、先駆性と分析する上野だが、「このゆび」を協セクターにおける小規模多機能型居宅介護の先進ケアと位置づける。官・民・協・私と分類する各セクターには他に代替できない役割分担があり、協セクターの「このゆび」こそ「民が官を変えた」とする。高齢者が住み慣れた住宅と地域で、24時間365日、安心して暮らせるようサポートし、施設型の集団ケアから脱して、個々の高齢者の尊厳を支える個別ケアへ、という理念の実践であるが、そこに危うさもある。
こう指摘する。ケアは、ケアする側とケアされる側の相互行為であり、よいケアとは双方が満足させるものでなければならない。福祉経営はその双方の利益の最大化を目指し、かつ持続可能なものにしなければならないのだ。「このゆび」の人件費比率は7割を超えて上限となっている。平均30名の利用者に対して、職員28名に有償、無償のボランティアが加わる手厚さだが、常勤職員の年収は2名が400万円を超えるが、ほぼ300万円を超える程度だ。賃金を上げることよりも、人員を確保し、手厚い利用者サービスを提供することと次なる投資にまわしたいということが、どうしても先行する。「このゆび」の成功例は、理念と志の高い経営者が、モラルと能力の高い働き手を低賃金で調達できる条件で成立している。
そして、この成功を奇跡と呼んだ方がいいと指摘する。しかし、この「奇跡」のなかにこそ、危うさと希望の両方が含まれているのだ。「富山型民間ディ起業家育成講座」の受講者の6割が実際に起業している。これこそ希望をもっていいとする大きな拠りどころになっている。どのような進化をみせるか、だ。
さて、わが予備軍たちよ!ケアされる側の作法と技法10か条を拳拳服膺しよう。
「ケアの社会学」