ヤクザ映画と聞くと、うずうずしてくる。高倉健の着流し姿、仁義なき戦いの迫力など脳裏に刷り込まれているのだろう。フレーズとしては「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている」。作家の橋本治が1968年、東大駒場祭のポスターに書き込んだ。東大紛争が真っ盛りで、安田講堂から火炎瓶が降りそそぐのは翌年である。背中のいちょうとはヤクザが背中に彫ったいれずみ。おっかさんの思いを振り切って、落城する安田講堂砦に、東大の持つ特権を振り切ってひとり乗り込む。学生がヤクザの任侠道に殉じる美学でもある。
更にいえば、こんな記憶も絡んでくる。わが新湊小の同期で組長に昇りつめたといわれる男がいる。1961年春、京都の食肉加工会社に中卒同期7人が就職した。その職場の劣悪さは耐えがたいもので、数か月で全員が辞めてしまった。ひとりこの男だけが京都に残った。身長も小さく目立たない男だったが、30年を経て、京都の暴力団の組長になったという噂が広がった。そんな時期に開いた同期会に、りゅうとした身なりの男があらわれた。「時間がないので」と、封筒を渡して「みんな元気そうで何より」と待たせてあった車に乗り込んで去っていった。受付の誰もが、あの男に間違いないと確認し合った。封筒には10万円が入っていた。さすが男の中の男、見上げたものと会場が盛り上がった。
さて映画だが、井筒和幸監督が8年ぶりにヤクザをテーマにした「無頼」。京都の在日を描いた「パッチギ」で注目していたので、待ちかねていた。3月15日、富山ほとり座にいそいそと出かけた。一言でいえば、これは「仁義なき戦い」深作欣二へのオマージュ作品。随所に見たようなシーンが出てくる。主演はEXILEの松本利夫だが、ぐれてチンピラからヤクザの組長に転身していく虚無感を漂わせる演技がはまっていた。井藤組という設定だが、融資を渋った銀行にはバキュームカーで襲い、汚物をたっぷりと撒き散らす。邪魔する政治ゴロには、ユンボでアジトに突撃する。高度成長も後押しし、大所帯となり、不動産金融や証券会社を配下にしていく。井筒監督のメッセージは、現代の若者に対し、抑圧に屈しない井藤らの姿を通じて「寄る辺なきこの世界を生き抜け」というもの。
ひと一倍怖がりであり、痛がりである。喧嘩は当然弱い。ヤクザの適性としては、何もないといっていい。でも、新湊小同期の組長と杯(さかずき)をかわし、舎弟になってみたい気もする。ヤクザは義理人情よりもカネの世界。何が何でも稼がなければならない。覚醒剤、賭博、ノミ行為、みかじめ料、民事介入暴力、企業対象暴力などが挙げられるが、年老いた舎弟はフロント企業なるものを作ることにしたい。今ならさしずめ、香港に飛んで京都に企業誘致を働き掛ける。香港の闇社会ともつながっていく。京都大の学生運動挫折組をスカウトして、村田製作所、日本電産、京セラなど京都有力企業に中国情報を提供し、コンサルティングも行っていく。組のバッジが意外と信用され、度胸と才覚が後押しし、回り出すという寸法。唐獅子牡丹が香港、深圳を闊歩する夢物語だが、どうだろう。
井筒監督よ、「無頼」は仁義なき戦いを超えられなかった。次は香港民主派の中国リベンジを映画化してほしい。わが組長が資金を用意する、もちろんアカデミー賞を目指す。
どういうわけか、映画づいている。3月20日同じほとり座で、8時間のドキュメンタリー「死霊魂」に挑戦した。時間を置いて伝えたい。