うれしい話である。10月4日朝、最近の日経は終面の「私の履歴書・青木昌彦」から目を通しているのだが、何気なく見た1面の書籍広告だ。3段8つ割という小さなものだが、「大連に夢を託した男 瓜谷長造」とある。これは親父が話していた“瓜谷”ではないか。富山出身とも何とも書いてないが、満州大豆で財を成したとあるから、間違いない。親父はどんな顔をするか、早く見せてやりたい、と気が急いた。言葉数も少なく、表情も乏しくなり、帰る時には涙も見せる。認知症というのは、加速度的に進む。話のきっかけ作りが毎日の課題となっているのだが、どんな反応をみせるだろうか。
ここはともかく、瓜谷長造だ。明治14年、新川県射水郡新湊町大字放生津町で、荒木家の長男として生まれているが、上に6女がいる。もう男子は望めないと家督の相続を考え、長女に婿養子をとった直後に生まれた。家督を継げない長造は尋常小学校を4年で終え、小樽に渡り、雑穀商での丁稚奉公からの仕事人生だ。そこで広漠たる満州が農産物の宝庫であることを知り、いつかはという野心を抱いた。次なるステップは、大豆輸入を扱う堺力商店神戸支店に職を得たこと。そこで頭角を現し、支店主任である瓜谷英一と義兄弟(戸籍上は養親と養子)となり、瓜谷姓を名乗る。また、時同じくして結婚している。そして、堺力商店大連出張所長として、満州の地を踏むことになった。ところが直後に、日露戦争後の大きな反動不況で堺力商店が倒産する。夢を捨てきれない長造は、郷里新湊から千円を才覚して、大正元年秋に大連で、瓜谷長造商店を自力で旗揚げする。
第1次世界大戦が追い風となり、大連の貿易額は飛躍的に伸び、その大半が大豆関連で、2年間で8万円の資産を作り上げていた。大連での一旗組みは等しく利益を上げていたが、大正9年に始まった恐慌は、倒産廃業などの淘汰を迫った。瓜谷も同じく苦境に陥ったが、従来の堅実な手法に加えて、その時の整理の仕方が実に潔く、自社のみの存続を願うものではなかった。これが銀行の支配人の目に留まり、そこからの融資で息をつくことができた。
三井、三菱などの財閥に伍して、個人商店として渡り合えたのは、情報を集めるのにカネを惜しまず、何でも即決できる勘とスピードがあったといわれる。昭和16年の「越中人物誌」では、大連税務署査定による瓜谷商店の年商は5500万円で、これを凌駕する実業家なしとしている。会社資産は2億円で、現在の貨幣価値では2700億円だ。大連の景勝地・老虎灘に広大な別荘も立てており、この頃が絶頂であったのだろう。
第2次大戦の戦況が厳しくなるにつけ、徹底した統制経済となり、軍部や財閥と距離を置いていた個人商店はその弱点を一気に衝かれることになった。表面的には身動きが取れず、地下にもぐるような仕事となり、商いは閑散としたものに落ち込んだ。
いよいよ敗戦となるのだが、ソ連の参戦はあっという間に満州を席巻し、大連もその占領下におかれ、瓜谷は何度も戦犯容疑で拘束され、その個人資産は略奪などによりゼロにしてしまった。引き揚げは昭和22年3月となるが、65歳となった瓜谷はすべて消耗し、気力も無くして長男に頼る生活を送ることになる。亡くなるのは昭和35年、78歳だった。
さて、親父の反応である。新聞に眼をやり、自分から「瓜谷か」といい、立町の紳士服“かどや”の前に実家があった。同じ尋常小学校だったこともあり、瓜谷と聞かない日はなかったと述懐してくれた。瓜谷の長女を娶った新湊出身の板垣與一一橋大学教授にも話が及んだ。まだまだ一部ではあるが、脳の働きが健在だということだろう。
この本は読んでみて、はたと気がついた。書き手には悪いが、取材が粗雑であるのと、肉親からの聞き書きがやたらと多い。そして、出版元はとかくの噂もある文芸社である。あなたの書いたものを本にする、と広告攻勢をかけている社であり、「あとがきに寄せて」も長造の三男・瓜谷郁三名古屋大学名誉教授であることから、肉親の依頼本かとも思った。ところが、文芸社の社長が瓜谷綱延、つまり長造の孫とわかり、出版の意図の浅いことが判明することとなった。
まあ、おらが郷土の立志伝中の人、あんまりけちを付けたくないのだが。
「瓜谷長造伝」