思わざる初音に歩を止め法隆寺(拙句)。いつの日かと思っていた法隆寺参拝が実現した。桜が舞い散り、鶯の鳴き声も加わり、ゆっくりと境内を散策することができ、清々しいが今に続いている。思えば、初めて手にした絵本が聖徳太子であった。生まれて間もない幼子が仏に手を合わせている。祖母との記憶でもある。その後黒岩重吾の古代史シリーズ「聖徳太子 日と影の王子」「斑鳩王の慟哭」で、蘇我馬子との確執を知った。大王位につけず、政治から身を引いての斑鳩隠遁でもあったのだ。梅原猛は「隠された十字架」で、法隆寺はたたりの寺とする大胆な仮説を展開し、ドキドキさせた。そして、立松和平から毎正月に法隆寺に参籠し、あのエンタシスの柱の補修にどれほどの心血が注がれているかに思いを馳せよ、といってくれた。多くの縁(えにし)であるのに、遅すぎた訪問である。ここでは梅原仮説にほぼしたがって、話を進めたい。
643年、蘇我入鹿率いる大軍が斑鳩(いかるが)の地を襲った。聖徳太子が605年に移住し、仏教の理想郷を夢見た地である。太子は既に没し、蘇我蝦夷(えみし)の専横により皇位継承権を失っていた山背大兄皇子を討ったのである。ふたりは同じ蘇我氏系で従兄弟の関係、肌合いの違いが近親憎悪を生んだといっていい。斑鳩宮に立てこもった一族25人は自害し、太子の子孫はここで絶えてしまった。この時法隆寺が焼失を免れたのかどうかわからないが、670年に法隆寺が全焼したと日本書紀にある。入鹿の若さと愚かさによる傲岸な行動が、蘇我氏滅亡へとつながっていく。1年半後の645年、中大兄皇子と中臣鎌足らによる大化改新である。入鹿の首が刎ねられ、父蝦夷は自殺に追い込まれた。
法隆寺の再建は711年とされる。焼失後40年を経ている。通説では太子ゆかりの人々が太子の徳をしのんで建立したとする。しかし、太子一族が絶えてしまったのに、難を逃れたゆかりの人間にこれだけ立派な寺を建てることができただろうか。梅原の疑問である。日本では不幸な死に方をした人のみが神として祭られる。柳田国男民俗学の指摘するところだ。霊のたたりへの恐怖は、時代をさかのぼればのぼるほど強い。さすれば、この頃に権力基盤を確立させた中臣鎌足・藤原不比等親子に焦点を絞ったらどうなるか。古事記、日本書紀編纂の陰のプロデューサーこそ藤原不比等ではないか。さりげなく蘇我入鹿を悪人に仕立て上げ、善人仕立てで藤原一族を登場させる。このことから、斑鳩焼き討ちも陰謀をめぐらしたのは鎌足ではないかと見る。鎌足こそ太子一族滅亡の張本人であり、その恐怖は並大抵のものではない。つまり、太子一族のたたりを恐れる余り、藤原氏に何か不幸なことが起こると法隆寺への寄進となって、その伽藍が整備されていったとみる。何より藤原氏は500年もその権力を維持し続けたのである。つまり500年も寄進が続いたと見ていい。
そして、法隆寺の建物だ。中門の真ん中に柱がある。まるで入るのを拒絶している。いやそうではなく、中にいる鎮まりきらない怨霊が外に出るのを防いでいると見たらどうだろう。中門を入った左にある塔もまた謎めいている。暗くて外からははっきり見えないが、柱に石が食い込んでいる。この石の意味は、塔の中で自害した一族の霊を押し込めるためでは。また、夢殿の救世観音像は、明治になってフェノロサが初めて木綿でくるまれたこの背の高い秘仏を取り出した。寺僧たちはこの秘仏を見たら、たちまちの内に地震が起こり、寺が崩壊すると信じていた。なぜ秘仏とされたか。何と光背が直接、観音像の頭の真後ろに太い釘で打ち付けられている。つまり聖徳太子御等身の像、すなわち太子御自身に、である。これはなぜか。見方を変えて、謎とする梅原流想像力ともいえる。
とうわけで、法隆寺境内を昼食を忘れて4時間さまよった。まだまだ尽きない。
さて、わが一族の行く末やいかに、ということだが、何ら苦慮すること勿れ、だ。太子一族を見よ、無辜の民を戦闘に巻き込むことなく、自らの死を選び取った。これに比すれば、格差社会にうろたえて、自らを失うこと勿れ、ということになる。
法隆寺