1609年薩摩藩が琉球に侵攻した。ほとんど抵抗を受けずに属国とし、法令15条で厳しい税の取り立てなどを命じ、琉球王朝は形ばかりのものとなった。一方、中国(明、清)とは臣従の関係がそのまま続いた。貿易を維持する上で必要と判断したためだ。戦いを厭う忍従の民が、いわば二重の支配を受けることになった。明治となるや、政府は廃藩置県とは逆に琉球藩とし、その7年後に沖縄県を置いた。県令が任命され、時の尚泰王は東京に居を移し、首里城を明け渡して、琉球王国は名実ともに崩壊した。これが世にいう琉球処分である。そらからも、本土にはない人頭税など収奪の限りが尽くされ、人々はソテツを口にするのがやっとの生活を送らざるを得なかった。ハワイや南洋諸島などへの移民に誘導していったのも、政府の思うままであった。そして45年、本土防衛の捨て石となる悲惨な沖縄戦を迎える。
「足を踏み入れる時は、必ず頭を下げること」。そんな謂れを胸に、初めての沖縄である。きっかけは、筑紫哲也の最新刊「旅の途中」(朝日新聞社刊)で、沖縄タイムスの創刊に関わった豊平良顕の記述に触れたためである。もちろん、ひとり旅で2泊3日。25日富山空港からのチャーター便に乗り込んだ。2月下旬の2週間だけ飛ぶのだが、豪雪が心配でキャンセルも相次ぎ、座席の半分が空いていた。空港売店で、沖縄タイムスを買ってタクシー乗り場へ。生粋の沖縄人で、ガイドも出来るという比嘉哲夫ドライバーのボロ車を選んだ。
45年4月1日、米軍は海面を艦船で埋め尽くし、日本軍の裏をかいての嘉手納、読谷などの中部区域へ上陸した。日本軍上層部の不手際、不一致が重なるも、嘉数高地から首里司令部までの天王山といわれる戦いでは死に物狂いで応戦し、米軍にも大きな損害を与えた。戦いはそれまでであり、その後の地獄図絵の化した南部戦線では、多くの悲劇を生み、6月23日をもって日本軍は玉砕した。この80日間で、軍人9万4000人、住民15万人の人命を失った。何よりも肝に銘じておかなければならないのは、ひめゆり学徒隊、14歳からの少年鉄血勤皇隊、老人からなる防衛隊などを戦場に送り込み、その命を襤褸切れを捨てるようにし、しかも米軍ばかりではない日本軍による住民虐殺があり,離島では住民を集団自決に追い込んだ事実であろう。
その後のサンフランシスコ条約での本土からの分離と米軍統治、72年基地をそのままにした本土復帰、米軍再編に伴う基地移転と「沖縄処分」はいまに続いている。
さて、沖縄タイムスである。異彩を放つのは、本土復帰に伴う国政選挙に参加拒否の論陣を張ったことだ。祖国復帰がようやくに実現し、さあこれからという事態に、体制側の予定行動的な攻撃であり、政治的策謀であるという少数派の論である。米軍統治が、日本による間接統治に変わるだけで、本質を隠蔽するものとして、沖縄人の思想性を問うた。沖縄で最大部数を誇る地方紙が、多くの革新政党や労働団体を向こうに回して、いわば新左翼系に与したといっていい。不偏不党、客観公正に欠けるといわれればそれまでだが、圧倒的な権力を持つ統治者と基本的な権利を奪われている被統治者の言い分を平等に並べるのが公正か、という。この論陣をリードした新川(あらかわ)は社長にも就任しているが、多くの中傷にこの社は負けなかった。大江健三郎が新川をして、畏怖の思いをおこさせる人といっている。
そんな気骨が今に続いているのだろうか、そんな思いで沖縄タイムスを訪ねた。さぞオンボロ社屋であろうと想像したが、9階建てのそびえる新築ビルであった。簡単に結論を出そうと思わない。遅すぎた沖縄の旅はこれから始めようと思った。長い旅になりそうだ。
別れ際に、比嘉タクシーガイドが三線を弾いてくれた。「お金持ちはほとんど軍用地主です。基地を維持したい日本政府は地代を上げ続けています」。そんな彼の言葉が残っている。
初めての沖縄