10年ぶりに加山又造の裸婦デッサンがあふれる「画文集・ゆふ」のページを開くことになった。こんなきっかけである。
「82歳の父に唯一残った趣味は裸婦を描くこと。モデルを家の小さなアトリエに招いてデッサンをし、時に写真も撮る。現像はさすがに自分ではもうできないので、信頼できる現像所をきちんと決めている。こういう事だけの手際はいい。そして、気が向いたら食事にも誘っているみたい。モデルさんは40歳をちょっと越したぐらいのひと。一緒に住んでいる弟が顔をしかめているのよね」。友人からここまで聞いて何と幸せな生き方だ、と羨望の思いがよぎった。人間は幾つになっても枯れないし、無理して枯れることもないのだ。そして思い出したのである。
日本画家・加山又造の鮮烈な裸婦画。見たものは誰もが息をのみ、たちどころに脳裏にその鮮烈さが刻まれてしまう。どうしてなのだ、裸婦画はどこにもあるのに、確かに違うのである。官能が根底から揺さぶられるのである。まだ眼にしていない人は、加山又造全集をすぐに求めた方がよい。実は裸婦を描くというのは、モデルとの共作なのである。どれほどいいモデルに出会えるかにかかっている。加山はたった一人のモデルを前に何と13年をかけて、3500枚のデッサンを描いている。飽かずに描き続けた。いや、その女性の黒髪に白いものが数条まじる年輪を重ねても、又造をして描かせ続けたといっていい。
その名は前本ゆふ。1949年東京生まれ。立教女学院高校を出て、多摩美大日本画科に入学。加山教室で学んでいる。同じクラスにいた前本利彦と同棲し、自分はしばらく筆を置くことにして、前本のモデルを始めている。学園紛争もあり、彼女は中退する。そんな彼女が27歳の時、加山からモデル依頼の電話が入る。加山は1927年の京都生まれだから、その時49歳。最初は3回だけの約束だった。はじめて衣服を脱いだ時、かなり取り乱しているように見えたという。肢体は小柄ながらよくしまった筋肉質、からだのすみずみまでよく手入れされていて、その心意気とは裏腹な動揺がおかしかったらしい。
北京から加山がゆふに送った手紙に、中国人の容姿はいいのだが、きれいな手足の指先はゆふに遠く及ばない、とほめている。一方、ゆふの覚悟はこうだ。絵描きは見るのが仕事、モデルは見せるのが仕事。時々絵描きの目は刃物のように鋭くなる。その視線を受け止めても動じないことだ。少しでも気後れするところがあると、気持ちが閉じて身の置き場がなくなる。真剣勝負がこの仕事の真髄。まず始めるのが化粧。念入りに念入りに、一番緊張する時。あの刺すような眼、真っ赤に引いた唇、伸びた指先のマニキュア、雌豹のような大胆なポーズ。大切なのは鏡だという。私は、鏡に映った私を見ながらポーズを決める。正確にいえば、鏡の中の女に、私の描きたいポーズをとらせている。そして自分の描きたいポーズしかとらせない。随分利己的だが、すみずみまで神経が通い、その息詰まる緊迫感が危ういバランスを保ったポーズが決めるからだ。仕事はほぼ1週間に一度、日程の変更はゆふが極度に嫌う。仕事時間はいつの間にか夜中になった。昼間は電話がはいったり、来客があったりと気が散るからだ。ここが肝心なのだが、この二人の関係はあくまで対等であるということ。物事をはっきりさせない京都弁と、すぐに切り口上の東京弁がやりあうという。そして、忘れてならないのが旦那の前本利彦。口さがない連中の中傷に耐え、モデルゆふを加山と共有する。プロに徹するゆふは、二つのアトリエの雰囲気をきちんと切り替えて臨む。
さて諸兄よ、とにかくモデルには触れてはならないのだ。昔立川のストリップ小屋で、物干し竿を持ったおっちゃんがいて、乗り出す客の頭をぶったたいていたのを思い出す。
そして諸姉よ、手入れのされた身体というのを想像してほしい。蚊に刺された痕も、キスマークなども論外なのだ。プロのモデルもなかなかに厳しい。
つまらないカルチャーセンターなど止めて、裸婦デッサン教室、アルバイト収入に最高ヌードモデル養成講座などやってほしいものだ。
「画文集 ゆふ」中公文庫1200円。在庫切れなので了解を。