前回の「スープとイデオロギー」に続く。映画を観終わって、パンフを求めると「こんな本もあります」と渡されたのが「朝鮮大学校物語」(角川文庫)。監督ヤン・ヨンヒが自らの在学体験を小説化している。彼女が在日で、しかも家族が北朝鮮支持という囚われから、演劇を通じて獲得していく自由がよくわかる。彼女の持つ感性に南北統一、日本との友好の大きなヒントが隠れているように感じる。まず彼女の卒業式のシーンから入ろう。
318人の卒業生代表が、偉大なる主席と親愛なる指導者同志に向けて忠誠の手紙を読み上げるのが習わし。そのさ中に声を挙げる。「私は組織にも祖国にも忠誠を誓いません。主席と指導者へ手紙を捧げるのは、317人です」。席を立つ彼女に「恥ずかしくないの!許されない行動よ」と詰め寄る教師たち。「私は誇りを持って生きていきます。どいてください」。入学当初からの「来る場所、間違ったかな」の思いが最後に弾けた。いや、弾けさせたいという願望であり、それを小説に託したといっていい。実際は大阪朝鮮高級学校で国語教師となった。こんな事情がある。朝鮮大学校では多くが就活などせずに、組織委託といって友好組織への配置任命が行われる。朝鮮総聯職員、朝鮮学校教員、在日同胞企業などだが、「革命哨所」にて忠誠を尽くしますと宣誓して拝命することになっている。この民族教育を「反日教育」と一蹴するのは簡単だが、解決とはならない。手塚治虫は、朝鮮人がなぜ自国の歴史や文化を、朝鮮人の教師によって朝鮮語で学んではいけないのかと賛意を示し、かって軍国主義教育を朝鮮の人々に強要したことを挙げている。
さて、小説は武蔵野美術大学生との恋に移る。国分寺市だが大学は多く、武蔵美は隣り同士という感じで、深夜のラーメン屋で財布を忘れた美大生に150円立て替えたのが縁。彼は貧しいながらもニューヨーク、ベルリンと留学のチャンスを得て羽ばたく。彼女は演劇と映画鑑賞に血道をあげ、大学内では孤立していく。ふたりが手をつなぐように帰路を急ぐ時、朝鮮大学校前でヘイトスピーチ集団に出会う。「スパイ学校!汚い朝鮮人、お前らを皆殺しに来たぞ」の聞くに堪えない暴言が続き、このふたりが標的になる。「売国奴とチョンの雌が乳繰り合ってんのか」と美大生の眼鏡が壊されることに。しかし大学校では、彼女と日本人美大生の交際が問題視される。彼女の啖呵は「人を好きになるのに、国籍を確かめて好きになるのですか」。
卒業旅行は2週間の北朝鮮行き。彼女の姉は帰国事業で数年前に北に渡り、結婚して夫婦で交響楽団で活動している。夫が思想問題で引っ掛かり、新義州に飛ばされていたが、何とか工作して再会を果たす。娘を抱いた姉は自分の宿命を受け容れていて、自由に生きろと必死に妹を励ます。
小説のエピローグは、演劇の演出をする彼女がようやく居場所を得ている情景が描かれる。ドキュメンタリーもそうだが、徹底して自分の身体で感じたものにこだわっている。それがすべて、とする手法が清々しい。
朝鮮大学校という特殊な空間も、期せずして知ることができた。ここの大学生たちも、偏狭な主義主張にいつまでもこだわり続けることはないと思う。ヘイトスピーチに立ち向かう武蔵美との共闘が実を結ぶことを期待したい。
武蔵美と聞いて、50余年前の記憶がよみがえった。大学に入って間もない時に、高校同期の友人に武蔵美の大学祭に招かれたことがある。帰途に恋ヶ窪を歩いた時は、恋の予感を感じたのだが実ることはなかった。遠い青春である。