いつか来た道

「空かぎる強き形 けがれなきよろこびの流れ・・」。中学の校歌が思わず口をついて出たのである。10月14日立山・竜王岳の頂上に登り、周囲を見渡した時だ。雲ひとつない青空にくっきりとしたこの山容を謳っているのだと初めて腑に落ちた。「空かぎる強き形、亡びざるもの美し」。50年を経て、甦ってくるフレーズに竜王岳の看板を抱えて胸が熱くなった。
 もうひとつある。Man is mortal(マン イズ モータル)。諸君!人間とは死ぬ存在だということだ、いつか真の意味がわかる時がくるだろう。英語の授業の一幕である。人生の終楽章にあって、これまたしみじみと胸に響いてくる。
 亡びざる悠久の自然と定めなき小さき命。こんなことを思いながら、末期のがんにたじろぐ中学時代のふたりの友に思いを馳せる。そして期せずしてふたりから、呑み会を設定してくれとの要望である。最期の宴ということだろう。二つ返事でわかった、と応えたがさてどうしたものか。
 ひとりには金沢行きを考えている。六角堂のステーキとビールの昼飯、ホテルでゆっくり昼寝をして,夜はつる幸でしみじみ日本酒をやる。それとも浅田屋旅館でゆっくり夕食と朝食を楽しむか。翌日はちょっと休んで、昼は県庁跡にできたレストラン「ジャルダン ポール・ボキューズ」で、ワインを傾ける。
 いまひとりは地元の「一風庵」にしようか、と思っている。最初の薄茶の接待で気持ちが定まる。他に客がいないので私どもに集中してもてなしてくれるのがいい。同年輩のお上のさりげなさも最期の席にふさわしい。と思いつつ、「レストラン小西」も捨て難い。この男は日本酒が好みだが、肉も結構好きなのだ。ニューヨーク勤務もあり、ワイン代わりに冷酒でやるのも乙である。
 あれこれ悩む老人を横目で見ていた愚息がいう。なんという贅沢な悩みなんよ、俺たちの末期というのを想像したことがあるのか。孤独で貧しくて、結婚もままならず、友情の絆もなく、野たれ死ぬしかないのだぞ。甘ったるいセンチメンタルに浸りやがって、お前ら世代だけが幸せでいいのか。人間死ぬなんて当たり前だろう。喜寿を迎える男たちに失うものは何もないはずだ、もっと尖がれ!例えば、焼き鳥の秋吉に行って、「きょうはおじさんのおごりだ。どんどん飲ってくれ。おじさんは長くはないのだ。ここで居合わせたのも何かの縁、せめてもの罪滅ぼし、遠慮せずに飲ってくれ!」という手もあるぞ。もっと考えてくれよ。お前ら世代が逃げ込んでしまったら、取り残されたロスジェネ世代は徒手空拳で、それこそ「アベ」の前で死屍累々とならねばならないのだ。憤死こそ最高の美学と思え!本気で立ち向かえよ。
 というわけで、厳しい現実社会と対峙することになった。それにしても、である。27日の自衛隊の観閲式で首相の訓示を聞いたのだが、いつもの幼い高揚感に陶酔しているようだ。自ら危機を創り出して、あれよあれよという間に政策を繰り出している。危なっかしい限りだ。ゲシュタポを創設したナチスの軍人ゲーリングは戦後のインタビューでこう断言する。「もちろん、普通の人々は戦争を望まない。しかし政策を決定するのは最終的にはその国の指導者であるのだから、民主政治であろうが、ファシスト独裁であろうが、議会制であろうが、共産主義独裁であろうが、国民を戦争に引きずり込むのは常に極めて単純だ、そして簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国家を危険にさらしていると主張する以外には、何もすることはない。この方法はどんな国家についても有効だ」。
 中学で学んだことだが、民主主義の根本は「情報公開」と「相互批判」。いまこれを摘んでしまおうという策動が蠢いている。それは誰にもわかっているのに進行している。いつか来た道にしてはならない。

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