「明日(あす)も喋(しゃべ)ろう 弔旗が風に鳴るように」。俳人・小山和郎の句であるが、朝日新聞天声人語によれば、87年に襲撃を受けた同社阪神支局に掲げられている。暴力に怯まず喋り継ぎ、風化させないという決意である。亡くなった小尻記者への弔い方でもある。
今回は弔いの作法について考えてみたい。老人は作家・木下順二、また詩人・茨木のり子にならい、花一輪といえども辞退し、葬儀無用戒名不要を宣言している。世間知らず、変わり者といわれるがこれだけは守り抜く、と愚息どもに戒めている。最近の世相では、無縁に貧困が加わり、期せずして直葬とかと呼んで、この動きが加速されているが、ちょっと違う。老人のそれは、生き遺ったものを煩わせないという高潔な思いであるが混同されて、忌々しく思っている。早晩、無縁貧困となるのだから、同じではないか、と愚息に指摘されて、それもそうかと思わされた。
この対極にあるのが、歌人であり、住職でもある福島泰樹で、97年に「弔い」(ちくま新書)でその作法を説いている。友人の臨終に駆けつけて、枕経を唱え、墓がないといえば自坊に墓を提供している。臨終、通夜、葬儀、初七日忌、四十九日忌、一周忌、三回忌、七、十三、十七、二十三、二十七と続き、三十三回忌をもって最終とする「完璧な弔い」を説く。無頼を自認する作家の石和鷹が、亡くなった妻の遺骨を、くわえ煙草で、まるで買い物袋をぶら下げるように右手でゆさゆさ揺すりながら、寺の玄関敷居をまたごうとするのを見咎めて、「遺骨は両手で胸に抱えて抱くものだ!」と一喝している。形式を踏むことで、こころの整理が出来ていくということもよくわかる。
さて、五月の風に弔旗をはためかせて、忘れずに喋っておかねばならない男がいる。予期はしていたが、通勤途上の車に飛び込んできた。高校同期・竹田忠雄の訃報である。「がんからの生還」(バックナンバー427)に記した男だ。それは09年1月のことだから、2年数ヵ月ということになる。でも、その時間に彼の熱いものを見させてもらった。
彼の高校時代、無二の親友だったのが林宏である。林は24年前、胃がんで亡くなったのだが、葬儀は浜松で行われた。そこで老人は偶然にも、同じ富山から駆けつけた竹田と鉢合わせることになった。そこからふたりの交友が始まったのである。その林には家庭的に複雑な事情があった(バックナンバー452参照)。林夫人から電話があったのが、竹田が生還しての秋口だった。養家である林家からの遺産相続をめぐるもので、老人には手に余るものだった。早速、竹田に相談したのである。その後の行動の冷静的確さに驚いた。すぐに勤務先の顧問弁護士を訪ね、問題のありかを探り、その勘所を分かりやすく説明し、選択肢を明確にして林夫人に問うている。一切恩着せがましいことはなく、文字通り親身そのものだった。林への友情が、死後24年経ても変わることはなかったのである。2年余の生還であったが、十分に享けた生を活かしていった。弔旗に向かってそう叫びたいと思っている。
また、わがブログの愛読者でもあった。彼から最初のメールが届いたのは01年9月26日で、偶然老人の「元気宅急便」なるブログを見つけたといって、懐かしく時間があれば昔話でもしようというものだった。何かつけて、エールを送り続けてくれた。それがなければ、これほどまでは続かなかっただろう。
彼の葬儀である。高校コーラス部で活動する若き竹田が躍動していた。そこで初めて知ったのだが、高校3年時に病気をして、高校生活を4年楽しんでいるのである。また、勤務した高岡市の塩谷建設で、創業者でもある塩谷孝一先代社長の信頼を得ての仕事ぶりにいつも感謝していたのを思い出した。久しぶりにコーラス部の女性陣にも会えたし、いい葬儀であった。
弔旗