「わたなかを漂流しゆくたましいのかなしみふかく哭きわたるべし」福島泰樹が詠んだもので、「わたなか」とは海中という意だ。3.11を受け止めかねて苛立っている老人のこころにしみわたってきたのだが、2万数千人の慟哭を耳にしても、心もとなく揺れている部分がある。今回は、そんなひ弱な老人と訣別できるかどうか、覚束ないが論じてみたい。
まず、負の見方からである。震災当初に伝わってきた海外からのリスペクト論調だが今はどうだ。身に余る賞賛を受けた震災直後の乱さない規律というのは、権力に従順で、怒り方も知らない去勢された国民ではないか、に変じた。無能な日本という声もある。敗戦直後の状況に坂口安吾がいい切ったように「戦争もひとつの天災というようにバクゼンと諦めきっているのかも知れない」が思い起こされる。
トモダチ作戦もそこに重なる。硫黄島玉砕や特攻隊攻撃で見せた捨て身で反撃する日本軍に身構えてみたが、意外に素直に占領政策を受け入れ、その後60余年を過ぎても米軍に感謝し続ける流されるばかりの国民性を、米国は見抜いている。救援物資などの空輸拠点となった原子力空母をお礼訪問した北沢俊美防衛相だが、敗戦直後に米国軍艦ミズーリ号甲板上で降伏文書にサインした重光外相に重なって見えた。二度目の降伏か、と感じたのは老人だけではあるまい。
さて、前向きな反論である。「働く」と「プライド」がようやく結合しそうになっている兆しに注目したい。船と魚網があれば自分で稼ぎだすから、そのあとまで心配してくれなくていい。三陸の漁師の心意気である。死に物狂いで働く町役場の職員を見て、公務員というのはこういうものなのだとわかったと思う。公僕なのである。敗戦直後の三好達治の詩がよみがえってくる。さあ「涙をぬぐって働こう」だ。
椅子取りゲームに疲弊しきった就活の若者よ、東北を目指すべきである。安定した職場で「ふつう」にしがみついても、根こそぎ奪い去ってしまうのが震災だった。運が悪かったで片付けようというレベルではないだろう。天が示した、死ぬということを偶然免れて生きる、という洞察に思いを致すべきである。東北で働く10年掛けて、正規・非正規という分類を資本の側から奪い取ってしまおう。基本的人権としての労働権を若者自らの手で確立するのだ。3万人近い命が奪い去られたが、自殺者ゼロの社会を創り出すことで、毎年3万人が死を思いとどまり生を取り戻す。そんな社会を創り出すことこそ、復興という名にふさわしいというものだ。
そんな意識基盤のもとに、復興需要があるという考えも正しい。戦後の復興は朝鮮戦争で弾みがついた。隣国の血であがなわれたのだ。しかし、この震災復興はわが国同胞の生活実需である。チャンスといってもいい。これをムザムザ既得権者に渡してはならない。戦犯を追放し、若き経営者こそ主人公にしなければならない。東京電力然り。若き東電社員が声を挙げるべきである。
そして、圧倒的な存在感を見せ付けた米軍に対してだ。もう騙されてはいけない。この震災を第二の敗戦にするわけにはいかない。このまま腰砕けとなり、TPPに参加となれば、経済も含めた日米同盟の深化となり、名実ともに独立国家とはいえなくなる。この問題でも、菅は資格がない。普天間でトラの緒を踏んだ鳩山の徹を踏まないと首相の座に着いたが、安保マフィアともいうべき陰の勢力にひざまずくように官僚、財界、メディアに従順になっていった。居直っているように見えるのは、この勢力が自分を支えてくれているという思いからではないかと勘繰っている。
というわけだが、わが3.11も、どう転ぶかわからない。逃げるわけにもいかないので、酒の量だけは進んでいる。
わが3.11序