秋は俳句大会の季節といっていい。ここぞとばかりに秀句、好句が膨大に寄せられる。その選句の困難さ、難儀さは想像を絶するほどで、神経を極端に磨り減らす作業である。五七五、たった17文字の詩型の宿命といえるが、選者にとってみれば、類似類想を払いのけながら、膨大な投句に目を通さなければならない。盗作、剽窃は枚挙にいとまがないという。見たような、似たようなという疑念が浮かぶと、先に進めなくなってしまう。こんなまがいものにも気が付かないのか、と逆に、選者の力量が問われているといっていいのかもしれないのだ。
蕉門には類似類想句について、「等類」「同巣」という概念がある。「等類」とは、着想、意味、趣向、内容において他の句と類似することで、これは厳しく排除される。一方「同巣」とは、意味、主題は異なるが、表現の手法、語調が類似することで、原句より優れていれば認めてもいいとされる。類想には厳しく、類似には寛容ということらしい。
芭蕉の有名な事例だ。「世にふるもさらに時雨の宿りかな」(宗祇)を、芭蕉は平然と「世にふるもさらに宗祇の宿りかな」と歌っている。堂々と本歌取りであることを隠そうとせず、後ろめたさも持ち合わせていない。その基準は?古典的な名句・名歌から取る?引用された本歌がすぐに分かるような特徴を取る?表現だけをとり着想は別にする、ということ。そして最も警戒すべきは、自己模倣に陥る自作だという(現代俳句10月号・安西 篤氏)。
さて、盗作・盗用の問題であるが、こういう具合に筆勢が乗らない時に起こる。俳句の門外漢といっていい者が蕉門と持ち出すと危うい。何度も繰り返すが「ゆずりは通信」ほどいい加減なものはない。有料媒体で、社会的な認知も得て、従業員の数人もいれば、確実に謝罪、謝罪の連続で立ち行かなることは間違いない。今もビール休憩で、お前さん週に1回の更新なんて、誰も望んではいないのだぞ。書くものが無ければ休載で誰も困らないのだぞ、との声を聞いている。自己模倣といえば、既に何回も犯している。それでも続けるのか、一体何のために、と問い詰めてもくる。自分でもよくわからない動機である。
今夏、小説「アサッテの人」で芥川賞を受賞した諏訪哲史はパソコンを使っていない。「ずっとワープロを使い、パソコンをしなかった。会社の仕事と病気だった父親を長期間、看病をしていたので、本を読む時間もなかった」と話している。ネットや本で情報が入らなかった分、自分の頭の中でしっかりと言語と向き合えて、小説が書けたということだ。このことに比べても、60歳も超えたのだから、もっとゆっくり取り組んでもいいのでは、と示唆されている。早晩真剣に考えることにしたい。
今は本題に戻そう。書くことを生業としている人間にとって、盗作・盗用ほどやっかいな問題はない。文字通り紙1枚すれすれの危険と隣り合わせている。締め切りに追われ、切羽詰った状況では特にこの禁じ手への誘惑が強い。同情を禁じえない。恐らく氷山の一角で、駐車違反や、スピード違反にあったようなものではないだろうか。告発がライバル誌などであってみれば、何で自分だけが、という思いだろうとも思う。
「等類」は論外だが、「同巣」は小さな盗用疑惑を超えて、世界を狭めないで、闊達に筆を進めろと奨励さえしていると考えていい。盗用の罪を深く後悔して、それを糧に羽ばたいている作家、ジャーナリストも多い。現場、資料をきちんと押さえていれば、それほど萎縮し、怖がることはないのだ。
防ぐ手立てだが、環境も大事である。特に出版社の編集者の資質、マスコミであれば社風といっていいかもしれない。とにかく筆者を孤立させないことである。成果主義を強調するあまり、人間の弱さを省みないで、もぐら叩き同様の労務管理が横行していることも、この盗用問題に隠されている。
「等類」と「同巣」