夢は最期の茶会を開くことである。三畳ほどの静かな茶室に、風の音を聞きながら茶釜から湯がたぎる。最期のお願いだと借りてきた名物道具で、思い思いの呑み方で楽しむ。流儀の稽古茶道とは別世界で、世事を超越した亭主と客が、かみ合うような、かみ合わないような問答を繰り返し、そして豊かな沈黙もある。これを数寄の茶の湯という。明治維新は大名家の没落に、廃仏毀釈も重なり、美術品の海外流出が目に余るようになった。それを憂えた三井の益田鈍翁、東武鉄道の根津青山、能登出身で荏原製作所を創業した畠山即翁、富山では佐藤工業の佐藤助庵などが侠気から買い求め、数寄者と呼ばれた。
さて、この話のきっかけである。書籍広告で「数寄語り」(角川書店 4800円)、著者・潮田洋一郎とあるのを見つけた。忘れられない名前で、すぐにピーンと来た。アルミサッシが富山の代表産業であった時代があった。三協立山、YKKが双翼であるが、厳しいシェアを争うライバルとしてトステム、現在のLIXILがある。いずれも創業者が竹平政太郎、吉田忠雄、潮田健次郎と個性的なのだが、シェアトップとなったのはトステムであった。ITに200億円を投資して一挙に納期を短縮して、関東圏の市場を押さえ、富山の企業を出し抜いた。その才覚は創業の潮田だが、小学校も結核で終えることもできなかったが、持ち前の負けん気で建具商から転換して成功し、いつしか愛読書にスローンの「GMとともに」を挙げるほどの立志伝を確立した。
それからしばらくしてからのことだが、美術商の間で高額な茶道具を惜しげもなく買い求める男がいて、それが潮田洋一郎だと聞いた。創業者の長男だが、東大卒で、その趣味人ぶりには健次郎も困っていたようで、一時は、後継者に据えることを断念し、副社長から平取締役に降格させた。だが結局、後継者にしたのだが06年11月ことである。
名物道具を求めていくエピソードをこう語っている。林屋晴三・東京国立博物館名誉館長を本阿弥光悦作といわれる茶碗を手に訪ねて、おもむろに風呂敷を解こうとすると「いや、お仕舞いください」という。見なくても、それがよくない物だとわかるというのだ。釈然としないまま帰ったが、その後大阪の美術商を知り、いままで集めた茶道具、書画の大半を売却し、コレクションをやり直した。徹底ぶりは京都に茶室を構えた時のエピソードだが、山縣有朋由来の無鄰菴を買い求め、隈研吾に頼み、奈良般若寺客殿や当麻寺の一部が移築された東京白金の般若苑が取り壊されるのを知り、それを活用し、敷石は中国の明代や清朝のものを求めている。15年7月に開いた南禅寺怡園イーストでの会記を見ると、客は林屋晴三、武者小路千家の千宗屋、千家十職の楽篤人の3人である。どんな話をしたのだろうか。美を見出しても、見え過ぎることを嫌う、隠す、ほのめかす、そして悟りの微笑、はかない夢、美しくとりとめのないこと。作為をことごとく嫌うのが茶の湯なのである。
その極意をもうひとつ。畠山即翁が五島慶太を招いたとき、彼の足が不自由なのを知り、飛び石の移動を庭師に命じて作り直させたという。そこまでするのが数寄というもの。富山ゆかりといえば、日本橋高島屋横にある壺中居も忘れてほしくない。
どうしても記憶が重なるのは、大王製紙創業家3代目の巨額カジノ騒動の井川意高だが、どうも住む世界が違うとしかいいようがない。
ところが、無名無一物でも、数寄者になれるのだ。わが6畳の客間に潮田、井川を招き入れて、ポータブルガスコンロで湯を沸かし、朔日饅頭で番茶をふるまって、数百億の愚かさを悟りの微笑で赦してやりたい。
「数寄語り」