水戸巌・高木仁三郎

 放射性廃棄物の地層処分についての勉強会に出かけた。9月7日(土)9時30分開始というのは、老人の脳が比較的活発な時間帯である。そんなこともあって、さりげなく紹介された水戸喜世子・講師から想像の翼が飛び跳ねた。86年12月30日厳冬の剱岳に挑戦した親子3人が遭難し、その遺体発見は雪解け後捜索を重ねてようやく9月という悲劇が思い出されてきた。3人とは、反骨気鋭で脱原発を説く物理学者・水戸巌(当時53歳)と双子の息子(24歳)で、京大大学院と阪大学生。惜しんでも惜しみ切れない才能が突然断ち切られてしまった。何あろう、眼前で講演している水戸喜世子は妻であり、母である。夫の遺志を継ぎ、子ども脱被ばく裁判の会共同代表などを務める。82歳。さわやかな表情からはその悲劇はうかがえない。谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」が浮かんできた。

 想像は市民科学者の道を選んだ高木仁三郎へと飛ぶ。水戸の5年後輩だが、65年から東大原子核研究所で机を並べた。三里塚闘争にも関わり、反原発の先頭に立つ水戸を畏敬の思いで眺めていた。ふたりに共通するのは、原発という巨大技術は軍事とも直結し、国家そのものといっていい。それに科学者として、人間には制御できない技術だと真っ向否定する。「それでは、あなたはなぜそのポストにいるのか」。例えば東大核研だが、膨大な研究予算を与えられながら、推進と反対が同居することがあり得るのか。この突き付けてくる詰問に応えていったのが高木である。

 この勉強会から帰宅すると、すぐに遺著となった「市民科学者として生きる」(岩波新書)を取り出して、再読した。どんな組織であれ、暗黙のうちに家族共同体的な共通の利害が形成され、それを守ることが自明のこととなっていく。また、そうした自主規制が組織への忠誠となり、その代償として雇用が保障されたり、天下り先が用意されたりしていく。どうするか、選択肢を考える。科学者という専門職そのものが特権的な存在であり、この特権を捨てる。組織内に留まって、内部抵抗派としてその矛盾と闘う。組織内のポストを捨てて、自前の科学、技術を目指す。ドイツの短期留学を挟みながら、選んだのは自前組織。非政府組織NGOの原型ともいえる原子力資料情報室。75年のことで、40人の会費収入と原水禁からの支援しかないスタートだった。専従となった高木は窮地に陥る。生活費にも事欠く。情報室の代表となったのが湯川秀樹などと並び称される武谷三男でこう戒めた。情報室では運動も大事だという高木に対して、「科学者には科学者の役割がある。君、時計を金づちにしたら壊れるだけで、時計にも金づちにもなりはしないよ」、運動をやっている自己満足で専門性を鈍らせたり、精進を怠ったりするな、と。

 権威主義とどう闘うか。そして、どうやって、めしを食っていくか。これは人間の品性で決まる。裁判で高木は問われる。たった数人の組織ですか、実験設備はないのですか。肩書のない市民科学者を、これでもかと貶めて聞いてくる。はらわたが煮えくり返るくらいの屈辱だ。その一方で誘惑もある。あなたの研究は素晴らしい、匿名だが3億円を提供しようという篤志家がいると名の通ったジャーナリストからの話も舞い込む。

 それでも、必死に闘った。00年12月に大腸がんで亡くなったが、時計と金づちのストレスが命を縮めたのは間違いない。水戸も高木も、3.11の惨状を見ていない。未だに再稼働という科学者にどんな言葉を投げつけるだろうか。

 あきらめから希望へ。高木仁三郎市民科学基金が遺言によって開設され、それぞれの寄付もあり5億円を超えている。

 

© 2024 ゆずりは通信