「孤高」鈴木敏文

 幼少時に胸躍らせて読んだ太閤記が、脳裏に刷り込まれているのかもしれない。セブンイレブンをこれほどまで成長させた鈴木敏文はどんな男か。その出世すごろくに興味は尽きない。コンビニを社会インフラにまで仕立て上げた業績は誰にも否定できない。ダイエーの中内功、西武の堤清二に劣らない流通業の寵児であるが、鈴木にはこの二人にはないもう一つの視点がある。自らはイトーヨーカ堂のサラリーマンであり、創業者である伊藤雅俊は絶対の超えられない存在だったということ。創業者オーナーは誰もがわがままで気性が激しい。仕える者の気苦労は計り知れない。そんな中で、ナンバー2がナンバー1を超える仕事をし、実績を残してきた。二人の関係は50年余と長い。その間、成長神話を創り続けてきたのである。2016年に後継をめぐる人事で意外な退任となったが、商人道を説く伊藤に、能吏なテクノクラート鈴木が挑んできた緊張の日々。その終焉の場面で、どんなやり取りがあり、思惑があったのか。パースペクティブに流通業の変遷を考えてみたい。

 この経緯を追った記録が「孤高」(日経BP社)。経営には何ら権限を持たない名誉顧問となって、ニューオータニ・オフィス棟にある執務室で、82歳の鈴木が日経記者のインタビューに忌憚なく答えている。「君たちは何もわかっていない」という口癖をそのままに孤高を崩していない。

 32年の生まれ。中央大学経済学部を出ると、東京出版販売(現トーハン)に入社している。出版社の取次大手だが、広報を担当し、著名人と接する中で広い視野を得ていく。また組合書記長として組織運営のコツも経験する。年功序列の保守的な会社で野心を抱える鈴木には物足りなかったのだろう。63年、伊藤に乞われイトーヨーカ堂に転じる。ここでも実際に売り場に立つことはなかった。販売促進と人事の後方支援だったが、頭角を現したのは業務改革員会の責任者になってから。この「業革」を毎週月曜日に開き、ち密なデータで売れ筋を絞る単品管理を徹底し、在庫管理の甘い他のスーパーをその収益力で圧倒した。「ムダは徹底的に切るが。コミュニケーションについてはいくらかかってもよい」と公言する。セブンのOFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)会議は毎週月曜日で、約1000人が集まり、その経費は年間15億円だ。

 取締役になったのが71年、セブンイレブンのスタートが73年で、翌年専務に昇格し、ナンバー2となった。当初伊藤はセブンに反対だった。サウスランド社が先行する米国のコンビニを見て鈴木はすぐにひらめく。ヨーカ堂のような大型店舗の鈍さでは、変化に対応できない。小さなコンビニは格好の店舗業態と映る。それから独自に展開していった商品開発力と販売力は完全にメーカーを屈服させている。セブン銀行も鈴木の独自発想。その結果、イレブンの売り上げがローソン、ファミマを毎日の販売額で20万円も上回る68万余円だ。発足6年での上場は鈴木の地位を確固たるものとした。そして、いまやセブン&アイ・ホールディングスは日本一の地位は獲得している。

 鈴木はこう語る。自分を無くそうと努力して、オーナーには無私の態度で接しつつ、新たな仕事に挑戦し、成功して信頼を得る。一方で他人の反論を絶対に許さないほど理詰めで考え抜き、強烈なトップダウンで実行する。このまま信じるほどでもないが、このくらいの自己肯定は許される。

 この後に続く世代はニトリの似鳥昭雄であり、ユニクロの柳井正となるが、鈴木無きセブン含めてどうなるのか。リベラルな人間としては、その陰で無理強いされてきたオーナーなどの影の部分の検証もしていかねばならない。

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