見えないから、見えている。見ているが、実はまったく見えてない。老人の視覚は新聞、テレビに、車の運転にと、何かに追われるように酷使しているが、何も見えていない。3.11以降、特にそう思えてきた。
2月10日、富山市オーバードホールでのコンサート「辻井伸行withオーケストラ・アンサンブル金沢」にいそいそと出かけた。申し込み抽選で当たったこともあり、そのラッキーさにあやかろうという下心もあった。しかし一瞬にして興ざめになり、聴こうという気持ちも萎えきってしまった。開演前に、入場料はすべて震災義援金に贈らせていただきますという無機質な案内が流れたのである。そういえば、これは「ほくでんふれあいコンサート」と銘打っていた、とようやく気がついた。とすれば、北陸電力丸抱えなら、電力料金コストということか、と腹立たしさが突き上げてきた。聞こえよがしの善意の文化活動とはどういう了見だ、とならざるを得ない。聴きに来る方も、電力の恩恵でこんな演奏会が安く聴けるのね、ということか。休憩時間には、知事や山田圭蔵元会長がたむろする。ピアニストの辻井がまるでピエロに見えてくるではないか。フクシマが忘れ去られている光景である。
ここまで感情論となると、石原都知事のいう「センチメントと恐怖感」という術中にはまるので、何とか落ち着かなければと手にしたのがカバンに入れていた「世界」3月号だった。「経済学からみた原子力発電」「経済学から見た自然エネルギー」を投稿している伊東光晴京都大学教授の論考を紹介しておきたい。
水道、ガス、電力はこれを私企業が行なうか、政府が行なうかにかかわらず公益事業である。公益事業の性格上生ずる独占を前提に、政府規制によって利用者を守っていかねばならない。総括原価方式もやむを得ない。但し、その公正報酬なるものは、発電、送電、配電に必要なものだけに対応するものであって、こんなコンサートや、北電が原発立地する志賀町に16年間に支払った地域振興協力金102億円はコストには入れない。総括原価方式がおかしいのではなく、最小限必要なものかどうかを峻別せずに行なわれていることが問題なのである。大手私鉄が既に導入している、いくつかの指標を策定し比較する中で、各社が競って効率向上させる方式を電力事業でも採用した方がよい。
自然エネルギーも価格抜きではありえない。経済的に購入先がない電力を政治力によって強制的に買わす電力を政治商品という。太陽光発電を例に取れば、コストが高く、CO2削減効果も決して効率的ではないと、ドイツでも論議されている。このような政治商品を買い続けさせることは、国際競争上も全く不可能である。
また、こうした混乱期に規制緩和に乗じて市場原理主義者がここぞと乗り出してくるが、ナオミ・クラインが「ショック・ドクトリン」に書く通りである。電力価格が自由に決められるようにして、果たして利用者が守られるのか。
3.11で国民の目の前にあからさまになったのは、原発の弊害であって、独占の弊害ではない。発送電分離もその利点と欠点をよくみることである。当然発電コストでもない災害の補償を料金に組み込むことはできない、と締めくくる。
老人は、この85歳の経済学者を信じるに足ると思っている。感情だけに走る軽挙妄動の老人を諌めてもらった思いだ。
さて、シーンレスとは視覚の不自由な人を指す。このブログでも、石川准静岡大学教授、失明を突き抜けてシーンフルを獲得した豊かな感性のかたまり三宮麻由子、そして今回のピアニスト辻井伸行、と取り挙げてきたが、彼らの動じない見る眼こそ尊重されるべきである。ほんもののユニバーサル社会にはほど遠いが、一歩一歩である。何と殊勝な老人になったのだろう。
シーンレス