「あいつはいい男だ」。こんな褒め言葉を男の同性から、もらっているとすればこれに過ぎる評価はない。ところが異性である女性から「あの人、いい人ね」といわれていたりするとちょっと引っかかる。便利、無難、人畜無害などを想像してしまうからだ。男の値打ちは女に選ばれることによっては決まらない。男の値打ちは何によって決まるか?男同士のつばぜり合いで決まる。最大の評価は、相手の男から「おぬし、できるな」といわせることだ。カネのない男との呑みでは、さりげなく傷つけないで勘定を払う。知識をひけらかせずに、それとなく知性の深みを会話の端々に感じさせる。できる男だな、とふっと思ってもらう時のぞくぞくする快感に比べたら、女からの賞賛など取るに足らない。男社会で認められない男は、男ではない。女なんてのは、そのあとに付いてくる。男同士の絆こそ、最も大切にしなければならないのだ。こんな意識構造を社会学では、ホモソーシャルというらしい。
紀伊國屋書店出版部のPR誌「scripta」に3年半も連載されていた上野千鶴子の「ニッポンのミソジニー」が遂に単行本となった。書名は「女ぎらい」となっている。上野と編集者の有馬由起子が、売るには書名が最も肝要と、と知恵を搾り出したのであろう。装丁も20年前に上野がブレイクした「スカートの下の劇場」と同じ人に頼み、何が何でもベストセラーを狙っているようだ。特に編集者の健気な野心が見え隠れするが、これくらいの野望は初々しく、好ましい。10月16日が第1刷となっているから、これから3ヶ月が勝負である。本のライフサイクルも超短くなっている。広告、書評などあらゆる手立てを短時間に総動員しなければならない。温かく見守ってやりたい、そんな気持だ。
さて、続きである。女のホモソーシャリティは存在しない。女の世界の覇権ゲームは女の世界だけで完結しない。必ず男の評価が入って、女同士を分断する。少なくとも、男の認める女と、女の認める女とのあいだには、二重基準があり、両者は一致しない。「おぬし、できるな」男は、ひたすら男に尽くす女を求める。それではどうして、そんなにいいという男同士がホモセクシャルな関係にならないのか。性は、貫くもの(主体)と貫かれるもの(客体)とに役割を分けなければならない。これではつばぜり合いが演出できないからだ。「あいつ、おかまかよ」という表現は、男のあいだでは男性集団の成員失墜を意味する。
上野の舌鋒でいえば、男と認め合った者たちの連帯は、男となりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明している。その究極が戦時における強姦であり、早稲田大学のサークルであるスーパーフリーの強姦事件である。ちゃちな特権意識と、男らしさ、それに共犯性の共有からくるこのホモソーシャルな連帯を、上野ゼミの学生は「絶妙な労務管理術」と呼んだ。軍隊の管理術と、これはなんと似ていることだろうと断罪している。
ミソジニーは「女性嫌悪」と訳される。ところがミソジニーな男には、女好きが多い。女ぎらいの女好きだ。女を性欲の道具としか見なさないから、どんな女にも、ハダカやミニスカなどという「女という記号」にも反応するパブロフの犬と同じだ。作家の吉行淳之介と永井荷風をその象徴として血祭りにあげている。
おぬしできるな男よ、ぜひ一読すべし。皇室も、東電OLも上野社会学は見事に捌いている。
というわけで、501回をついに書きなぐってしまった。老人のほとんど病気といっていいかもしれない。これほどの偏執な性分が、自分の中に潜んでいるとは自分でも信じられない。
「女ぎらい」