隣の人も静かに涙を流していた。小さな暗い空間で、それぞれの記憶と重ね合わせるようにフイルムは回った。そういえば、“月が出た出た 月が出た 三池炭鉱の上に出た”と盆踊りで鳴り響いた炭坑節ももう聞くこともない。その映画は中央線東中野駅前の小さなシネマ館「ポレポレ東中野」で見ることが出来た。ぜひ伝えておきたい。
「三池~終わらない炭鉱の物語~」。熊谷博子が7年間にわたって撮り続けた。彼女の撮影手法は自ら映像ジャーナリストといい、演出するのではなく、社会の事実をそのまま映し出すことで真実を抉り出していく。
三池炭鉱の歴史は、明治以来の資本主義の発達過程が見て取れる。最大利潤を求める獰猛ともいえる炭鉱資本は、その炭坑になだれ落ちてくる民衆の生き血を吸い続けてきた。土地を追われ、職を奪われ、地上で生きる権利と希望を剥ぎ取られた農漁民、労働者、囚人、朝鮮人、俘虜、海外からの引揚者や復員兵士、焼け出された戦災市民などの血だ。それぞれの時代と社会の十字架を背負った者たちは、次から次へと地獄の地底に転げ落ちるしか他に術はなかった。映画は強制連行の中国、朝鮮人、米軍捕虜の凄まじい証言も映し出すが、59年の1278人の指名解雇に端を発した三池争議以降に絞ってみたい。
「向坂さんに踊らされたんです。机の上の学問の実験台になったようなもんです」と三池主婦会・島フミヱの証言できっぱりいった。マルクス経済学者で、戦後の社会党左派の理論的な支柱であった向坂逸郎九州大学教授のことだ。三井三池にも足を運び、向坂教室で活動家を育成した。主婦達にも貧困がなぜ起きるのかと資本論を講じた。53年の争議では職員もストに参加して、解雇撤回を勝ち取っている。「英雄なき113日の闘い」と呼ばれる争議だ。それ以来職場は労働者の自治区となり、増長した活動家が職員の吊るし上げなどを行い、両者の間で大きな溝もできていた。石炭から石油へのエネルギー政策転換を背景に、今回の指名解雇は社側にとって背水の陣であり、総資本としても負けられないものだった。一方資本の側はどうか。明治の初めに岩倉使節団に同行し、マサチュセッツ工科大学で鉱山学を学んだ團(だん)琢磨が、官営三池炭坑が三井財閥に払い下げられるや、その事務長となって辣腕を振るう。後に三井の大番頭と呼ばれ、右翼の凶弾に倒れている。三井鉱山は財閥系企業の正統な系譜に属する。その末端に連なり、組合の分裂を主導した大澤誠一労働課長は富山出身、組合の分裂しかないと冷静に考えていた。熊谷監督は大牟田の人々を撮り終えてから、富山に駆けつけ、前日に退院したばかりの大澤を訪ねている。渡された大澤メモを必死に一晩で読み込んだ。
総資本と総労働の闘いとなった争議は、第2組合の就労を巡り激烈を極めた。暴力団も介在し、労働者がひとり殺されるまでとなっていた。その間の生活をカンパに頼るしかない労働側の消耗が厳しい。「女から崩れていったんです。女には生活がかかっていますから。米も味噌のやりくりもね。女がこれ以上どうにもならないといったら、ご主人は揺らぎますよ」。炭住と呼ばれる長屋で仲良く暮してきた同士が、口も聞かない仲になる苦痛を主婦が語る。解雇ではなく自然退職とする労働側不利の中労委斡旋案を受諾して終わる。分裂分断された労働者の感情的な対立は中労委斡旋で終わるわけがない。
3年後、三池炭鉱に更なる悲劇が襲う。三川坑での炭塵爆発事故である。458人が死に、839人が一酸化炭素中毒となる。フイルムは60年後もその後遺症に悩む労働者を哀しく映し出す。一瞬にして人間が破壊され、記憶喪失、意識障害、痙攣などの後遺症が残る。「ひと口に38年というが、一日一日365日、1年間掛けるのが38年間ですよね。人間の大事な脳をやられて、外から見えないで、全く別の人間に変えられての年月ですよね」。夫を介護し続けてきた首藤心子の言葉である。
さて、作家・上野英信も紹介しておかねばならない。京都大学を中退し、自らも炭鉱で働き、炭鉱労働者の文学運動を組織した。「追われゆく坑夫たち」「地の底の笑い話」(岩波新書)「出ニッポン記」(現代教養文庫)ほかがある。
「ポレポレ東中野」で、まだ上映が続いている。必見だと思う。
三池炭鉱、終わらない物語