もう一度人生をやり直してみるかと問われたら、もう結構ですと答える。決して満足しているわけではないが、代わり映えのしない同じ道を歩くに違いないからだ。それでもといわれたら、高校の3年間というかもしれない。人生の最初の転機となるのは、やはり高校時代である。地方区から全国区への助走期といっていい。つまらない試験の点数に押し込めようとする圧力から解放された教育があるはずである。
東大の秋入学が国際人育成の切り札とはやされているが、松本紘・京都大学総長の入試改革の方が先だ、という論に与したい。大学もいい素材を求めているのだ。少数科目の点数だけでは選抜できない。複雑な問題にぶつかっても解決策を見つけだせるような幅広い基礎知識、柔軟で強靭な思考力を持ち、何よりも自分に自信を持っている若者が狙いだ。
入試改革のポイントは、受験科目だけでなく、実験、発明、芸術、スポーツ、ボランティなど多様な活動をやっている高校を公募し、連携して独自の入試を行なうというもの。連携校は意欲的に改革に取り組み、チャレンジ精神に富んだ創造性の豊かな生徒を育てると踏む。また、5年間の全寮制大学院設立も進めている。留学を含めた人材育成型大学院だが、できればその連携高校から京都大学、そして大学院というやり直しを目指したいものである。
そんな思いのところに中公新書から「高校紛争1969~1970」が出た。語られなかったもう一つの闘争として、大学闘争とは違うものを教育ジャーナリストの小林哲夫が10年かけて取材した。評論、手記、機関紙、100校以上の高校史などを渉猟し、250人から聞き取っている。紛争の多くは地域におけるトップ校で起きているのだが、このまま選ばれた存在としていいのか、と純粋に自己否定論に反応している。受験からドロップアウトし、高卒として革命活動家の道を歩む者、素朴に卒業式で卒業証書を破り捨てる女子高生まで程度の差はあれ、自らを問う戦いであった。多くは押し潰されていったが、稀なる勝利として、愛知・旭丘高校、麻布高校を挙げている。この2校では今も管理教育を持ち込ませていない。
特に麻布では、政治活動の禁止、問題を起こした生徒の即時退学、暴力には即機動隊導入などを打ち出した校長代行を退陣に追い込んでいる。校史1208頁のうち250頁を紛争の記述に割き、全生徒に配布する。教養色の強い、受験一辺倒でない教育は「麻布型」として確立させた。
音楽家の坂本龍一も新宿高校で紛争にかかわっている。生徒会長が現自民党代議士の塩崎恭久で校長室を占拠していた。そこに遅刻してきて「おかあさんがネ、起こしてくれなかったノ」と甘えてことをいって、そこにいた教師に足を蹴飛ばされている。教師はいう「やみくもの自由を求めて、すべてを自由、平等にして果たして理想的な社会、高校生にとって理想的な教育機関が創出できるのか」。稀なる勝利を手にした紛争では、若者に少しでも身を寄せようと勇気を振りしぼった教師、父兄がいたことを忘れてならない。
さて、京都大学の連携高校にどれほどの高校が名乗りを挙げるのだろうか。できれば生徒達にもそうした討議の中に入ってほしい。助走に大きなスピードと方向感が加わることは間違いない。不況に加えて、覚えたことのない逼塞感が漂っているが、入試偏差値を打ち破る契機にしてほしいものだ。
わが母校では100周年を目指して、募金活動が始まろうとしている。こうした動きを支援するものになればいいのだが。下校時に利用した富山大橋がこの3月24日に新しく完成する。この橋を示し合わせたように、2人で歩いた甘い記憶はそのままにしておこう。
参照/朝日新聞2月17日朝刊「秋入学 京大は」。
「高校紛争」中公新書。
「高校紛争」