ここ10年以上使っていない広辞苑を書棚の奥から引っ張り出してきた。刊行60年になることで、岩波書店のPR誌「図書」が特集している。そういえばこんなことも、と青春の苦い思い出がよみがえってきた。
広辞苑第1版は1955年だ。大卒初任給9000円という時代での定価2000円は、庶民にはとても手の届かない代物であった。どういう経緯か記憶にないが、62年の高校時代には、わが机上に鎮座していた。多分見栄っ張りの親父が誰かに入れ知恵されて、高校入学祝に無理して買ったものではないかと思っている。本格的に使い始めたのは大学に入った時で、大学ノートに難解語を書き写していた。それもほんの一時で、酒を覚え始めてからはその使い道は一変してしまう。大学時代の仕送りは現金封筒で2万5千円であった。この1万円札2枚を、広辞苑の1000ページ目と2000ページ目に挟み込んで利用していた。銀行などとは無縁の時代で、友人たちはほとんどそのことを知っており、飲みに出かける時は広辞苑を持っていかないのか、と茶化していた。ある時、あるはずと思っていた1万円が消えており、口に出せない疑惑に悩まされた。自分の記憶違いかもしれないし、こんなことを口に出せば1万円の紙切れほどの友情か、となる。いやちょっと拝借しただけと、そっと返してくれるかもしれないと待ってもいた。そんなレベルの低い広辞苑利用者と成り下がっていたのだ。情けない限りである。
現在手元にあるのは77年刊行の第2版第2刷で、定価は4600円。結婚して2児をもうけての32歳で、活字全盛の時代でもあった。平凡社の百科事典と並んで、一家に一冊広辞苑というキャッチフレーズに踊らされたのかもしれない。
広辞苑の総発行部数は1100万部を超えている。岩波書店は広辞苑だけでも食っていけるといわれていた。83年の第3版がピークであった。現在流通しているのは第6版で、収録語彙数は24万語、ページ数は3074頁。三浦しおんの「舟を編む」ではないが、頁数は増えても紙質の軽量化により、厚さ重さはそう変わらない。しかし電子辞書化はそんな努力をあざ笑うかのように立ち塞がった。
91年の第4版が電子化の端緒で、その凋落は想像以上だった。08年の第6版は「頗る」などの説明文を縮小コピーした駅貼りポスターや、ユニクロと提携して挿絵の図案をあしらったTシャツを販売するなどのキャンペーンを行い、22万部の目標を達成した。この販促手法が評価され、第1回日本マーケティング大賞を出版業界で唯一受賞している。それまではブランドに頼っているだけで、この十倍の売り上げがあったのだから、スタッフのため息が聞こえてきそうである。逆引き広辞苑もそんなため息から生まれたのであろう。果たして第7版をどのようにイメージして辞書編集部は動いているのだろうか。ちょっとのぞいて見たい気もする。
老人の数少ない就活リストが岩波書店であった。3000人が受験し、数人が採用という倍率だから、岩波の就職試験を受けたという勲章だけがほしかったのだろう。新入社員の仕事は図書の発送と聞いていた。初任給3万円は群を抜く。神保町を歩くと、就職が内定していた集英社とともに甘酸っぱい思い出がよみがえる。岩波への義理というより、青春の義理といっていいかもしれないが、月刊誌「世界」は50年を過ぎる定期購読となっている。わが浦野俊夫先輩は岩波新書をすべて買い揃え、いつ床が抜けるかと心配しているそうだから、上には上がある。
息抜きといえばいいか、久しぶりに俳優座を観てきた。6月11日、砺波市文化会館。亡き斎藤憐が05年に書いた「春、忍び難きを」を再演していた。端正な言葉使いが気持ちよくて3時間余が短く感じ、久しぶりに気持ちの良い余韻に浸れた。「僕たち演劇人も資本主義制度の中で生きているのだから、お芝居を作って食べていかなければならない。それが今、どんどん難しくなっている。一反の土地で野菜を作るのと、量産体制の工場で製品を作るのと、どちらが儲かるかを考えると、おそろしく手間がかかるこの演劇という奴は効率が悪いのだ」と嘆きつつ、「人気のない農村の芝居を都市部の観客に観てもらおうというのは無謀かもしれない」。しかし「てめえが毎日食っている米は誰が作っているんだ!」という怒りが書かせた。
上海バンスキングで初めて斎藤憐の才能に触れたのだが、木下順二、井上ひさしに続く劇作家であることは間違いない。この斎藤も11年、70歳で亡くなっている。
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