「(学生運動が)何だったのかと問われると返す言葉もない」。40年余の沈黙を破って初の講演で元全共闘議長の山本義隆はこう吐露した。また、安倍政権下の状況を踏まえて「今は戦争前夜みたいな状況。僕らが若いころ、戦前の人に、なぜ日本のファシズムや戦争を止められなかったのかといってきたが、同じことを今の20代、30代にいわれるのではないか」と苦渋の表情を浮かべ、「あと何年生きられるかわからないが、やれることを見つけ、やっていかなければならない」と結んだ。10月4日のことである。「10.8山崎博昭プロジェクト」が立ち上がっていて、その発起人を代表する形で「私の1960年代」と題して語りかけた(東京新聞10月13日)。
同じ日に、久しぶりに羽田から京急線を利用した。宿泊も土曜日とあって格安ホテルは都心になく、大鳥居駅そばの東横インとあいなって、何と京急を2往復することになったのである。穴森稲荷駅を再度通過するうちに遠い記憶がよみがえってきた。
67年羽田闘争と呼ばれるベトナム反戦闘争で、京急沿線が活動の拠点となっていた。当時の佐藤内閣はベトナム戦争に際し、軍事基地、弾薬庫、野戦病院の提供を通じてアメリカを後方支援していた。その佐藤首相がベトナムを含む東南アジアを訪問することになり、学生を中心とした新左翼各派は訪問阻止闘争を展開した。出発日の10月8日、羽田空港に侵入しようとし、機動隊と激しく衝突した。そして事件は起こった。穴森稲荷から程近い弁天橋で、京大生の山崎博昭が亡くなったのである。60年安保の樺美智子以来の学生の死で、18歳だった。
山崎博昭プロジェクト趣意書「わたしたちはここで泣く!」から引用する。彼は大阪府立大手前高校時代から反戦運動に参加しました。寡黙で成績優秀で、おとなしい青年だったことは級友たちの誰もが覚えています。その彼が京都大学文学部に入学して半年後、当時の三派全学連の一員として羽田闘争に参加。彼は橋の上で亡くなりました。一人の無名の若者の 半世紀という歴史の時間を経て、羽田の地に、弁天橋にほど近いところに、山崎博昭を追悼する小さな鎮魂碑を作ろうと、わたしたちは発案しました。日本が徐々に戦争に向かいつつある現在、このプロジェクトは、山崎博昭の名前とともに、わたしたちがいまも、これからも戦争に反対し続けるという意志表示でもあります(14年7月4日)。発起人には山本義隆と並んで鷲田清一、上野千鶴子、道浦母都子、高橋源一郎らが名を連ねている。
さて、残り少ない老人のやれることとは何か、しばし考えてみる。尽きるところ、やはり若い人たちへのさりげない励ましではないか、と思う。ヘイトスピーチの傍らで、若者がぎこちないが反対の声を挙げている、声を挙げなくても何てひどいと表情をゆがめている。京都では「京都では差別は似合いまへん」というプラカードを掲げている。いいね、頑張ってと声を掛ける。カンパを募っていたら、その趣旨をしばし聞いて千円札を見えないように差し入れる。そういえば、先日紹介した庄東の家に、DVを逃れて母子3人が転がり込んできた。食べ盛りの中学生もいて、早速と友人は米30キロを持ち込んだ。こんな小さな積み重ねだが、確実に世の中を動かしていくことを信じるしかない。
そして、阪神4連勝にしてやったりと快哉を叫び、巨大メディアと政府権力が一体融合化してその野望を果たそうとしているY紙のW老人に引導を渡さなければならない。
羽田界隈の記憶