「父の肖像」

大学3年から2年間は東武東上線北池袋の民家を改造した下宿に住んでいた。昭和41年春のことで、大学の前半は新宿を拠点にしたが、後半は池袋であった。西武池袋線江古田に武蔵野音楽大学があり、その近いところという下心もあったようだ。思いを寄せた音大生との最初のデートは西武百貨店の屋上。手さえ握ることのなかった淡い恋はあっという間に消えてしまったが、西武と聞くとその頃のことが思い出される。
 西武王国の凋落を見据えたように、男は小説を上梓した。「父の肖像」。王国を築きあげた父・堤康次郎の生涯を書き切った。虚実がない交ぜになっているが、どう取られようとかまわないという覚悟が見える。「新潮」に3年半にわたり連載していたものを、この時期に合わせ、まるで一族の挽歌を口ずさむようでもある。男は77歳、詩人でもあり、文芸論では有数の論客である。人生最後の道程に立ったと自覚したことから、父の伝記をまとめることにしたという。
 男は自分の母親を知らない。庶子である。といっても、嫡子庶子そのものがいい加減なのである。堤康次郎は、女は子を産む道具としてしか見ていない(小説は楠次郎だが、実名でいく)。滋賀の近江から東京に出て来て間もない頃、高田馬場の場末のうどん屋の未亡人に引き込まれ、性の手ほどきを受けた。その娘が上京した折は頼むといわれ、短歌の勉強にきた彼女との間に生まれ、弟夫婦の子として入籍される。下世話にいう親子丼。母親は身ごもった時には、もう別れていていた。弟夫婦の急逝により、康次郎に引き取られ、養母に育てられる。東大に入ってすぐ、青年共産同盟に、続いて共産党に入党する。この時、男は相続の放棄と引き換えに自分の行動に介入するなという絶縁状を父に渡している。父親との確執がのっぴきならないところに来ていた。財閥の御曹司にして党員であるが、生涯を通じて夢中になり、情熱を燃やしたのは後にも先にもこの運動だけだったと述懐している。しかし党内の抗争は、男を反動政治家の父の命を受けたスパイだと断罪してしまう。傷心の男は身の潔白を証明するため、一層活動を続けるが、結核に冒される。男の不思議のひとつ。その治療なって、何と衆院議長となった堤康次郎の秘書として社会復帰する。機転の利く男は父のピンチを救うが、仕事をうまくすればするほど、康次郎の男に対する猜疑心、嫉妬心が働いていく。そして、西武コンツェルンの主要なところは嫡男で、異母弟の義明が継いでいく。コクド会長にして世界一ともいわれた資産を所有するが、父に従順でその遺訓にしがみつき、猜疑心、嫉妬心だけを継承していると断じている。とにかく康次郎の凄まじい事業欲、性欲、資産を残そうとする欲望に、男を含めて一族が翻弄されていく。小説の世界はこれにておしまいにするが、康次郎が政治の世界で、永井柳太郎、松村謙三と親しくしていた記述には驚いた。
 さて、男は西武系の会社をひとつだけ引き受けている。西武セゾングループだ。30年前ぐらいだろうか。その西武セゾンを率い、一時期日本の流通業に文化を持ち込み、全国を席巻するかに見えた。長浜の「楽市」、尼崎の「つかしん」など全国から見学の同業者が引きも切らずに集まっていた。富山の老舗百貨店大和の売り上げが250億円の時に、富山西武が180億円と肉薄し、もはや抜き去るのが時間の問題と思われていたのもその頃。それがどうだろう。バブルが弾けて、あっという間に凋落し、男は自らの財産の提供を申し出て、ようやく経営の座から降りることができた。
 男の名は堤清二、ペンネームが辻井喬。小説では恭次。「“恭次には気をつけろ”と父から疎外されたが、これは本人の猜疑心の強さではなく、権力に本来備わっている性格なんです。そう客観視できて書くことができましたね。消えた日本の父親像のひとつを描ききって20世紀に自分の中で決着をつけました」。
 さあ諸君!どうも生きる、生き抜いていくコツというのは、この客観視にあるようだ。でも堤の知性にして77年かかるということだ。

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