こんな経験は誰にもあるはず。尾籠な話だが、人間この難儀だけは避けては通れない。急に催してきた便意である。朝の、通勤ラッシュの列車の中。吊り革を力いっぱいに引っ張りながら、いつもより多めの牛乳が悪かったかと反省してみるが後の祭り。かなり切迫してきて、額に汗がにじむばかりの状態。さあ、この窮状を切り抜けるために、どんな代償を払えるか。自問自答したことがある。最初は1万円ぐらいは払ってもいい。いや3万でもいい。その内に10万払っても。とにかく何とかしてくれ、と脂汗がじっとりと。この時にトイレを用意してやるからといわれれば、大概のことは二つ返事でわかったというだろう。この世の中でこの切迫した便意に勝るものはない。ましてや、途中下車して一目散に駆け込んだ駅のトイレがふさがっていた時の、人生の不幸といったらない。更にポケットを探って、ティッシュのない時はまさに人生絶望である。
深刻な話がよく飛び込んでくるが、よくよく考えてみると、この便意を超える深刻さはないように思う。人生、所詮それほどのものなのである。
もともと攻撃的な性格ではないが、寄る年波か、何事にも哀れを催すようになってきた。危険な兆候である。白黒がはっきりつけられなくなる。黒にもそれなりの事情というものがあるだろうと、すぐに惻隠の情が湧いてくる。曖昧模糊として、どれもしようがないだろうで終わってしまう。突き詰める集中力に欠けるが、これもひとつの老人力かと納得させている。そんな思いの時に本屋で手にしたのが、東海林さだおの「ヘンな事ばかり考える男 へんな事は考えない女」。
東海林さだおはいう。人間は哀れである。何がどう哀れって、人間に関するすべてが哀れである。姿、形が哀れである。頭のてっぺんにのっかっている大きな頭が哀れである。二本の足で立っているところが哀れである。せわしなく、息なんか吸ったり吐いたりしているところも哀れだ。その吸ったり吐いたりを、やめられないところも哀れだ。たまに呼吸を休みたいと思っても、休むと死んじゃうところも哀れだ。
哀れが続くのだが、彼は「威厳喪失グッズ」なるものを考える。スリッパ、紙袋、おんぶひも、である。なんでも小泉首相が貴乃花に感動したと総理大臣杯を手渡した時、土俵上で首相はスリッパだったらしい。大男と小男、裸対背広、そして背広にスリッパ。小泉が哀れに見えたという。気が付いた人はいるのだろうか。さすが漫画家の観察眼だ。
さて、この尊厳喪失3点セットを威張り散らしている政治家に持たせたらどうなるであろうか。鈴木宗男が赤ん坊をおぶって、野菜など入れた紙袋を手に、スリッパ姿。これでは、NGOなど生意気なんだよ、詫びを入れに連れてこい、といっても様にはならない。この3点セット、一番誰にさせたいかといえば、橋本龍太郎だという。あのオールバックの髪型に似合うかもしれない。東海林さだおの慧眼には恐れ入る。
世の中に、偉い人なんて一人もいないのだ。
哀れでない人なんか一人もいないのだ。
みんな哀れをおおい隠して生きているのだ。
おおいきれずに、ところどころがバレる。
人間はもともと哀れなのだ。
更に続けて、あらゆる生命体は、種を次の世代につないでいくための単なるヴィークル(乗り物)なのだ。ということは個の事情、個の言い分、個の幸、不幸は意味がないことになる。一定期間、息をしつづけたあとは、意味なく死んでくれればいい。きょう一日あったこと、意味がないんだよ。これから先、いろんなことがあるだろうが、意味がないんだよ。唯一、意味があるのは、ときどき腰をヘコヘコさせることだ。腰をヘコヘコさせている時のライオンは実に哀れだ。威厳も尊厳もあったものではない。だが、腰をヘコヘコさせて、ライオンの種を次代につなぐものを出してくれないと困る。一生のうちに何回か、これだけはやらないとまずいことになる。人間もしかり。そして、悲しい節をつけて唄おう。
小泉純一郎の哀れ~さよ。
田中真紀子の哀れ~さよ
鈴木宗男の哀れ~さよ
唄っている自分の哀れ~さよ