1940年8月20日メキシコで、周到に計画された暗殺が実行された。ひとりの青年は2年越しで計画を練り、12回目の訪問で、外套に隠し持ったピッケルで頭を打ち砕き、絶命させた。スターリンのとり憑かれたような権力欲と復讐心は、ついに最大のライバル・トロッキーを仕留めたのである。
ロシア革命はレーニンの指導力のもと、レーニンとほぼ対等のトロッキー、レーニンの意のままのように振舞うスターリンという危いバランスのもとで遂行された。22年、52歳のレーニンが脳卒中に倒れたのを機会に、スターリンの飽くなき権力欲の障害物が取り払われた。ソ連共産党中央委員会の書記長であったスターリンが人事権を一手に握り、全土に広がる党官僚・国家官僚のネットワークを束ねるように自ら仕向けたのである。当初書記長ポストは、政治局に従属する、さながら事務局長のようなものに過ぎなかった。それがいつの間にか絶対権力者のポストにすりかわった。
レーニンはこのことを危惧して、亡くなる1年前に党へのメッセージ、いわゆる遺言を口述させている。スターリンを党書記長の地位から除くように指示し、「あの男は粗野で非寛容、不誠実で気まぐれだ」をその理由とした。しかし、この遺言はスターリンによって封印されてしまった。レーニンの盛大な葬儀はスターリンが取り仕切り、後継者は自分とアピールし、トロッキーには嘘の日時を教え、出席さえさせなかった。25年、世界革命論を唱えるトロッキーと、一国社会主義を掲げるスターリンとの決定的な対立から、トロッキーは党を除名され、反革命者の烙印が押されることになる。29年に国外追放となり、次女が謎の死、長女が自殺、義理の息子2人と4人の孫がシベリア流刑となり、その後消息を絶っている。
本名レフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン、暗号名トロッキー。彼ほど劇的な勝利を得ながら、その後痛ましい敗北を喫したものは他にない。天才的な民衆煽動家、誰からも称賛された軍司令官、永久革命の伝道者。そもそもロシア革命を成し遂げたのはトロッキーであり、彼がいなければ、危機に陥った革命を救いあげることはできなかった。にもかかわらず彼はレーニンの前に身をかがめ、スターリンと衝突し、あげくの果てスターリンの復讐を受け、殺害されてしまった。「偉大なる敗北者たち」(草思社)でヴォルフ・シュナイダーは語る。
一方、編集者の宮田毬栄は「読書のすすめ」(岩波書店第10集)でこう惜しむ。もしレーニンが10年長く生きのびていたならば、といった仮定はむなしい幻想でしかないだろう。私たちは社会主義社会の行方をおおよそ見てきたのだし、革命の理念がそれを運営する人間たちによって無惨に変質させられる現実も見てきた。しかし、それでもなお、トロッキー著『わが生涯』を読み通して後で背負う深い悔恨の感情は、この悲愴な物語が読者に要求する最大のもののように思われる。
最高権力者になったスターリンは自分で考え、自分で決断しなければならなくなった。彼の青春期は厳しくマルクスの著書を読む時間もなかった。共産主義に対する知識もレーニンから断片的に得たものだけだった。教条的で単純化した強圧的な政策は多くの犠牲者を生んだ。密告が奨励され、粛清で亡くなった人は2000万人とも、4000万人ともいわれる。そんな指導者を生んできたのである。レーニンの責任は重い。
ところが、そのトロッキーの思想がアメリカのネオコンによってよみがえろうとしている。自由と民主主義というアメリカ発の世界革命思想を、イスラムを含めた全世界に広めようというもの。「ネオコンのゴッド・ファーザー」と呼ばれるアービング・クリストルは、トロッキストであることを隠していない。
偉大なる敗北者