アジャスター

その求人票には年齢50歳以上とあった。一昨年暮れのハローワークでのこと。一瞬眼を疑ったが確かにそう書いてあり、損保業界のトップ企業で、資格取得後は年俸で500万円近い。よしと思ったが、筆記試験ありとなっている。56歳にもなって筆記試験なんてできるわけがないだろう、と諦めるところだった。家に帰って女房に話すと、「あんた何を甘いことをいっているの。筆記試験だろうと何だろうとやらんとどうするの」とすごい剣幕である。流通業をリストラされてから、この5年間は女房のパート収入で支えられていた。出入り業者への恐喝めいた脅しで売り上げを何とかしろといわれて、ばかばかしいとこちらから辞表を叩きつけた経緯がある。部下をも踏み台だという職場の変わり果てようについていけなかった。
 採用試験場には、紺色のスーツに身を固めた銀行の支店長か、次長と思える70人が並んだ。1名の採用だから70倍の難関である。中学程度の数学、国語でマークシート方式。時間内では全部こなせない、知識力よりも咄嗟の判断力重視の試験のように思えた。さすが慶応大学を卒業しただけにペーパーテストには強く、トップの成績で次なる面接試験5人に残った。面接でも自説を述べた。「お客さんを大事にしない企業は駄目だ」といい、さりげなく「自分ほどプレッシャーに強い人間はいない」と自己PRした。ユニクロのアルバイトで、中国から輸入された製品の包装を解く単純な作業を延々と続け腱鞘炎寸前までになり、そのあと夜のアルバイトもした。調理師の免許まで取得し、居酒屋開業も寸前まで考えた。老舗料亭の番頭も恥を忍んでやった。晦日におせちを100軒近く配達するのだが、顔を見知っている奥さんが声を掛けてくる。気を取り直して、ありがとうございますとあいさつするが、背中には冷や汗が流れた。そんな思いが自然と口に出たのである。その損保会社もそんな人材に絞り込んでいた。
 かくしてその最難関を突破した。昨年3月1日入社となったが、損保協会の資格試験が待ち構えていた。仕事はその受験勉強だけ。これも大変なプレッシャーである。自動車整備、道交法、民法から、自動車部品コストと工賃など。5月18日、年4回ある試験の最初の試験で通過した。ほっと胸をなでおろした。
 名刺には損保会社名と並んで「アジャスター」と記されている。医療アジャスターもいるが、彼の場合は技術アジャスターで、物損事故調査員ともいう。自動車事故が起きると、損害車両の損害額、事故の原因および損傷部位と事故との技術的因果関係の調査確認業務を行い、こちらの契約者に代わって、相手や相手方加入の保険会社の担当者と「過失割合」についての交渉をする。簡単な仕事ではない。非を認めない相手に、何度となく繰り返し説得を続けなければならない。50歳以上の採用条件は、この説得力を期待してのもの。成る程と思うが、神経が磨り減る。この1年で職場を去っていく人間もいた。事故当事者も自分の過失をそっちのけで、まるで保険会社の交渉が悪いと居直ってしまう。外資系の参入もあり、競争も激しい。
 女房のあの一押しがなかったら、この職にはついていない。何となく自分に合っていると思うようにしている。加えて、登校拒否と家庭内暴力で悩まされた長男が、同期から3年遅れてようやく地元私大に入り、今就職活動をしている。これがひとり立ちしてくれるまでは、自分の夢は封印しておこうとも。「もしチャンスがあれば、流通業のコンサルティングをやってみたい。やはり悔しいじゃないですか。正論が通用する商売を取り戻したいですよ」。
 やり直すには遅すぎるが、諦めるには早すぎる世代を代表する声だ。ひょんなことから、ゆっくり話す機会があった。「あんまりけしかけないでください」とかわすが、この団塊世代、まだ捨てたものではないと思う。さて、その先陣を切るわが世代の責任は重大といわざるを得ないのだが、とほほほ・・・。

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