「ここに新中納言知盛の卿、“見るべき程の事は見つ。今は自害せん”とて、わが身に鎧二領着て、壇の浦の水底深く入り給う」。できれば大きな声を出して読んでもらいたい。木下順二の原作だが、20年かけている。石母田正の「平家物語」(岩波新書)を手にしてひらめいたのが1957年。作品の発表が78年、「文藝」1月号。その前に<山本安英の会>が発足し、日本古典の原文による朗読はどこまで可能か、がテーマとなり、『平家物語による群読―知盛』という台本を書き上げ、68年に岩波ホールで発表している。それが子午線の祀りの原型である。
能楽師という存在、それは舞台の上でつねになにものかから、なにものかへうつりつつ、しかもそのいずれにも没入して自己を喪うということがない。ときに語り手であり、ときに運命そのものであり、ときに自然そのものであるその変身の見事さ。こんな劇評に触れて、大作に挑むきっかけを得たという。自を語り、他を語り、同時に自他を含む全体を語り、また次の瞬間全体を俯瞰する視点を天の子午線に置く。心地いいリズムで、日本語のよさが沁みてくる。それを能、狂言、歌舞伎、新劇の手法で分厚く展開する。
79年が初演。壇の浦(下関)が振り出しで、偶然富山公演が入っていた。富山県民会館だったが、その群読に圧倒され、滝沢修演ずる阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)が脳裏に刻み込まれた。その後、第6次公演を新国立劇場で見たのが99年の2月。
もう見れないのかと思っていた。新聞の片隅に載った劇評に,何が何でもと最終日の前日に駆けつけた。1月29日大阪厚生年金会館芸術ホール、全席指定の12000円。ということで3度目となるが、幕開きには緊張した。演出が宇野重吉から観世榮夫(宗盛で出演も)へ、知盛は嵐圭史から野村萬斎へ、義経が野村万作から市川右近へ、影身の内侍が山本安英から三田和代、高橋恵子へ。人は変わる、しかし変わらない何かが凛としてある。原作からするとほぼ半世紀、その生命力は衰えない。古典の域にはいり、見る側の人間の新しい“問い”にいつも何かを答えてくれる。
平清盛の四男である知盛は、27歳のとき長男重盛が病死することによって一つの運命が訪れる。次男基盛は既に夭折し、暗愚の三男宗盛を抱えての衰退平家の運命を一身に背負う知盛。瀬戸内の潮の満ち引きが瞬時に切り替わる壇の浦、月の引力が平家の敗北を決定的にする。「すべてがそうなるはずのことであったといま思われるのはどういうことだ?」。34歳の知盛の悲痛な声だ。
木下順二は原作の行き詰まりに悩み、気晴らしに中国に出かける。北京で何気なしに手にした「毛主席詩詞墨迹」。そこにある「天若有情天亦老」(天もしこころあらば天もまた老いん)。自然が感情を持てば、天の運行は乱れ、天もまた老いる。天の非情さこそ天たるゆえん。残酷さをみつめることと、みつめる人間のこころとは別である。天の非情なる摂理を受け入れ、それでも祈り、慟哭する人間。「非情の相を、しかと眼をこらして見定めよ。われらたまゆらの人間が、永遠なるものと思いを交わしてまぐわいを遂げ得る、それが唯一の時なのだな、影身よ。」
三度目にして、ようやく平家を裏切る阿波民部重能の存在がよく理解できた。滝沢修のことは次回にゆずることにする。
公演時間は4時間半。尻が痛くなるのには閉口した。座席が狭く固いのである。そして7割は占めている女性観客に同情した。トイレである。開演30分前から行列であり、休憩時にも到底終わらない長い行列である。男性トイレの3箇所を女性用としているが追いつかない。
いまひとつ大阪行きの目的は道頓堀極楽商店街。観劇のあとタクシーで出かけたが、イメージとは全く違いがっかりした。これでは客は呼べない。翌日は四天王寺へ。朝鮮使節使をイベントで復活させた四天王寺ワッソの舞台とは何か知りたかったから。その帰途、猪飼野地区をぶらぶら歩き、「血と骨」の雰囲気を味わった。
子午線の祀り