「週刊朝日」101年目の落日

 戦後マスコミの三羽烏と呼ばれたのが文藝春秋の池島信平、暮しの手帖の花森安治、週刊朝日の扇谷正造。昭和のわが世代は彼らの絶頂期を共に過ごしてきた。47年復員から戻り、週刊朝日の編集長となった扇谷は太宰治の心中事件に際し、山崎富栄の遺書をスクープ。誌面のほとんどを彼女の日記で埋めた。刷った13万部は3時間で売り切れ、58年には最高部数153万部に押し上げた。その時の朝日新聞は359万部で、ほぼ半数が週刊朝日を定期併読している。扇谷がイメージした読者像は「中学生程度の読み書き能力に、プラス人生経験10年、夫の月収2万5千円、子どもふたりくらい」の階層。さりげない正義感とヒューマニズムを砂糖でまぶした「シュガーコート編集法」と名付け、しかめっ面で新聞を読んだあとで、週刊誌が笑顔にする。それが受けたのだろう。サンデー毎日、週刊新潮、週刊文春などが続く。絶頂期は長く続かない、赤字ローカル線と同じく、客足が遠のいたら存続は難しい。休刊を決めた22年上期の週刊朝日の実売部数は4万5824部。ピークの20分の1以下となっている。

 休刊の舞台裏を綴るのは青木康晋・元編集長。月刊「創」3月号で、奇しくも特集は新聞社の徹底研究と銘うっている。新聞協会加盟112紙の部数調査では、この6年間、毎年200万部を減らしていて、朝日も一時期800万部といわれたが、429万部と激減している。紙とデジタルの統合編集を課題に悪戦苦闘しているのが現状。

 こうした下り坂で編集長を務めるのも楽ではない。イラク日本人人質事件で週刊朝日の契約写真家が拘束され、自ら記者会見の場に立たされ、自己責任批判の矢面となり、なす術もなかった。またあろうことか、前の編集長が武富士から編集協力費の名目で5000万円を受け取り、取材費用に充てていた。お詫びだけで済む訳はなかったが、この情報を週刊文春に漏らしたのが朝日新聞の幹部であった。身内に敵を抱え込む陰湿な企業体質もエリート企業に付き物だ。止めを刺すような事件としては、評論家・佐野眞一の連載で橋下徹当時の大阪市長の人権侵害の論評を掲載してしまったこと。週刊朝日だけで済むはずもなく新聞社の社長も引責辞任となり、新聞部数も大きく減らすことになってしまった。

 一方で週刊朝日を支えた連載も記憶に留めておきたい。吉川英治の「新・平家物語」、司馬遼太郎の「街道をゆく」、池波正太郎の「真田太平記」であり、週刊朝日を裏から開かせる男と呼ばれた山藤昇二の「ブラック・アングル」も46年間続いたことは特筆しておきたい。

 高学歴、高収入、高年齢層に支えられた週刊朝日は、読者サービスで行うパズル懸賞の当選者から丁重なお礼のはがきが届き、資料請求はがきの反応も部数が何倍もある他誌に引けは取らない。青木元編集長はそんな読者層に支えてもらって、心からありがたいと謝意を述べている。ジャーナリズムは受け手である読者にこそ支えられている。

 朝日新聞は新聞の赤字を、何とか不動産収入でまかなっている。朝日だけに限らず、全国紙、地方紙も同じ傾向にある。デジタル化は同時にグローバル化となり、パーソナル化となる。週刊朝日の休刊は大きな転換の始まりであることは間違いない。新聞協会加盟112紙の生き残り競争だが、何紙が生き残れるのだろうか。

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