浄き卵持つ女たちよ

処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす
(おとめにて みにふかくもつ きよきらん あきのひわれの こころあつくす)

朝こんな歌にめぐりあった。低俗で汚らしい話題ばかりの中での「浄き卵」。一日この一語がまつわりついて離れない。女の持つ聖性とはここに発するのかと妙に感じ入った。作者は歌人・富小路禎子(とみのこうじ・よしこ)。

4月9日の毎日新聞。彼女の追悼
文の中で紹介されたもの。その名の通り富小路家は1000年をさかのぼる貴族の家系で、しかも歌道をつかさどる。敗戦直前に母を亡くし、社会的な地位を失った父を支えて会社勤めをし定年まで続けた。やがて父を見送り、結婚はせず、身ひとつの暮らしで歌に励んだという。杉並のワンルームマンションでの孤独死。今年1月2日のこと。享年75歳。掲歌にある通り、女ひとり、すがすがしい心を持って自立することを決意し、それを矜持として生き抜いた女の一生の結末である。

浄き卵持つ女たちよ。この一生をどう見る。孤独死を恐れることもあるまい。どんな死であろうと、死は死である。それよりも求める余りに、聖性とは裏腹な生き方を余儀なくされることもある。ふと思い出したのが東電OL事件。これでもか、と求めすぎた哀しさ。でもそこを突き抜けたところに彼女の聖性がみてとれる。多少バイアスのかかった男の考えからすれば、聖なる乙女も、街角に立つ娼婦もそれほどの差があるわけではない。どうしようもない乙女を持て余している男も多いように見受ける。

ところで、この女たちに比ぶれば、男の陳腐さは相当なものだと思う。ひとつの聖なる浄き卵を目指す無数の精子たち。そんなものを撒き散らすだけの男の哀れさだ。しかも物心ついたときから、死ぬまで枯れることがないようだ。

作家の高樹のぶ子がいう。男女の身体感覚の差。イソマグロやサメの多くは泳ぎ続けることで酸素を取り入れる。自分が動かなければ生きてはいけない。男もじっとしていては身体感覚が得られない生き物かもしれない。いわば自分では何にもできない人生のお客様。その点、女はじっとしていても入れ代り立ち代り、快や不快やその混合体がやってくる。初潮も妊娠も更年期も勝手にやってくるのだ。妊娠なんてその最たるもので、小さな受精卵がいつの間のか子宮に着床して育っていき、最後は人間丸ごとになる。おまけに激しい痛みと共に飛び出してくるのだが、この痛みは大抵喜びの感情に裏打ちされている。

女になりたいという愚かな男たちも出てくるわけである。

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