今も聞き続けているCDが吉田日出子の歌う「上海バンスキング」である。「あの時 貴方 来てました ラストナイト だから 声かけてあげましょね ウエルカム上海」。トランペットとクラリネットのセッションが開幕の合図で観客を上海へ誘い、舌足らずの甘え声が心に響き渡る。記憶は鮮烈である。
斉藤憐が書き下ろした戯曲「上海バンスキング」は日中戦争が開戦するさなかの上海が舞台。クラリネット奏者である波多野は、妻のまどか(吉田日出子)を連れて、軍国主義で窒息しそうな日本を離れ、ジャズを自由に演奏できる上海に向かい、そこで出会うジャズ仲間との交友を織り交ぜながら、時代に翻弄される姿を描く。波多野は麻薬におぼれ廃人となって終幕する。ちなみにバンスとはジャズメンのギョーカイ用語で、ギャラの前借りのこと。
初演は79年六本木の地下にあった自由劇場。とにかく役者がジャズ演奏をしなければならない。台本にある楽曲の数にのけぞった演出の串田和美はいう。「こりゃ、ジャズメンに芝居を教えたほうが早いぜ」。そして誰も楽器を持っていない。劇団も団員も貧乏でおいそれと楽器が買えない。それでもアルバイトをして、それぞれの楽器を手にして稽古場に辿り着き、猛練習が始まった。楽譜も読めないのでカタカナで、ソソラ、ソラと書き込んでいた。演劇に掛ける情熱は半端ではないのだ。初日の客席は見るも無残だったが、口コミで人気に火が付き、見る見るチケットの入手が困難な舞台となっていった。延べに435回のロングランとなり、再演のたびに串田が新しい演出をして新鮮さを失わなかった。老人が観たのは富山県民会館で、83年前後ではないかと思っている。
さて「私の記憶が消えないうちに」(講談社 1800円)はその吉田日出子が高次脳機能障害に罹り、記憶が残っているうちにと繰り出すおしゃべりを書き留めている。演劇史でもある。44年雪の金沢で生まれているが、精神科医となった姉の勧めで、俳優座養成所第14期生として演劇人へのスタートを切った。自由劇場は吉田の母の友人がポンと600万円出してくれて誕生した。地下にあったので、アンダーグランドと称したが、これが火付け役となり、唐十郎の状況劇場、竹内敏晴の代々木小劇場、鈴木忠志の早稲田小劇場、寺山修司の天井劇場が続いて生まれた。
恋も奔放である。いいなあと思って好きになった人とは、好きになったその日から一緒に暮らす、これが基本。それが1年で終わることもあれば、10年近く続くこともある。終わるときは、相手の人が嫌いになるわけじゃなくて、ただほかの人を好きになっただけ。小日向文世の関係も隠していない。
数年前から約束した日が覚えられないなどがあったが、恐ろしいその日は突然やってきた。いつものようにクルマで家を出て、しばらくすると、すっかり通い慣れた稽古場への道が分からなくなってしまった。私はいまどこを走っているんだろう。意識がストンと穴に落ちたかのように、空白になってしまった。前頭葉に小さなピンホールほどの傷がみつかり高次脳機能障害と診断される。愛犬と散歩している時に、突然走り出し、それを追いかけようと壁に激突してできた傷である。セリフが覚えられない役者は舞台に立つことはできない。冷酷な現実が突きつけられたのである。
それでも2010年、演劇仲間の友情が上海バンスキングをシアターコクーンで再演してくれた。代役が常にスタンバイしていたが、まどか役を20ステージ代わることなくやり遂げることができた。吉田日出子、通称デコは記憶に残るであろう。
誰しも記憶が消えないうちに、と思っているのだが。
上海バンスキング