死後に出版されることを予測して、筐底(きょうてい)に秘かに原稿を隠しておく。作家なるものはそんな習性があるらしい。最近では、詩人・茨木のり子の「歳月」、城山三郎の「そうか、もう君はいないのか」がそうだ。国際ジャーナリストの藤村信(本名・熊田亨)もその顰(ひそみ)にならっている。前2書ほどに艶っぽいものではないが、「うぬぼれ鏡」と書いた大型封筒にはいっていた。「うぬぼれ鏡は筐底にかくしておくべきもので、ひろく人々の眼にさらすのは気恥ずかしい」と続けて、控えめな調子で「私家版として、少数の部数を作って、知己の方々にお贈りすることにしました」と書き留める。ところが「まえがき」の最後で本心がポロリと出る。「20世紀後半最大の天下大乱について研究する人々が、あるいはこのささやかな本に目をとめてくれる機会があるかもしれないという、これまた、わたくしなりの淡い希望めいた期待があるからです」。謙遜とは、目に見えるうぬぼれでしかない、というが、彼もその範疇を出ることはない。
ということで出版されたのが「歴史の地殻変動を見すえて」(岩波書店)。出版経過を書いているのが、娘の熊田マリ。父の素顔も誇らしく紹介している。旧約・新約聖書、コーラン、ユダヤ教のトーラーすべてに通じ、数ヶ国語を駆使し、日本史、古典、文学に詳しくて「百科辞典」のような人でした。そして祖国を愛していた、と。誰から見ても、1級の知識人であったことは疑いの余地もない。
49年に東大を卒業し、朝日新聞を落ちて、中日新聞に入った。組合運動をやっていたせいもあり、30歳で中東特派員に出された。これがさいわいした。カイロに拠点をおいたが、電話も簡単につながらない時代である。時間もたっぷりあったのであろう。中東の歴史、文化、アラビア語を学び、エジプト学の先駆者と娘に自慢していた。また、レバノンでは貴族の家に下宿をし、フランス語もこの時にマスターしている。
そして、パリ特派員に転じる。68年から、藤村信のペンネームで、『世界』(岩波書店)に「パリ通信」を寄稿、以後定期的に寄稿を続けた。70年人事異動で、帰国を迫られた。「日本にいたら、ジャーナリズムは務まらないし、ジャーナリストとして満足いく仕事ができない」と迷った末に、退社はするが、同社嘱託としてパリに駐在することになった。岩波雄二郎岩波書店社長が手を差し伸べたのである。岩波の岩波らしさである。中日社内では“花の24年”同期入社が尽力した。パリに住み続けることになった熊田は、激動するヨーロッパを駆け巡った。こんな風に述懐している。
歴史の巨大な転換という千載一遇の機会に当面して,わたくしなりの世界史の一部を書くのだという野心が,わたくしに勇気をあたえ,はげました。東ヨーロッパの市民革命、ペレストロイカ改革、その挫折とソ連崩壊、ベルリンの壁の崩壊とドイツ統合、中東の危機と湾岸戦争、またロシアの復活とあたらしい民族の現象の誕生などなど。彼からのレポートが、どれほどその理解に役立ったことか、計り知れない。
そして、ドイツの平和的な統一の影で、ソ連外相・シュワルナーゼと西ドイツ外相・ゲンシャー両人の、たぐいまれな外交官同士というよりも,思想家として友情さえ感じていた外交成果を挙げ、日本の政治家のどうしようもなさを嘆く。惜しいジャーナリストを失くしてしまったものである。
さて、そんなレベルの話ではない。歳末の21日、富山空港でカバンを忘れる大失態を起こしてしまった。しかもカバンの中には講師謝礼50万円がはいっている。出迎えた講師がタバコを吸いたいというので、外の喫煙所でカバンを床に下ろし、打ち合わせをし、会議先の砺波へ急ぐあまり、失念してしまった。会議の5分前の時間を利用して空港事務所に電話をして、辛うじて確保した次第。その時、電話に出た男の対応だ。見つかったら、携帯へ電話をほしいといったら、「あなたが勝手に忘れたのに、電話までしろ、とはどういうつもりだ」と。結局、電話をくれたのは、空港派出所の巡査の方だった。届けてくれたのはインフォメーションの女性だという。ありがたいやら、情けないやら。
うぬぼれ鏡
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