新劇の神様

引き続き「子午線の祀り」。三度のステージを見ているが、今も脳裏にあるのは初公演の滝沢修演ずる阿波民部重能。平知盛と共に頽勢の平家を支える四国の豪族だが、最後には平家を裏切ってしまう。自分で自分がわからなくなりながら自滅する男だ。すーっと舞台の袖から現れて、知盛に「民部でございます。いま誰かここにおりましたような。違いますか?」と低い声でいう。木下順二いわく「滝沢の重能は、彼が動くといつも不吉な影がつきまとっている感じだった」。体をどう動かしてみたところで、メイクアップをどう工夫してみたところで、そんな?影?は生まれはしない。いわば演技を超えた演技ともいうべきものが滝沢にはあった、と。この民部に知盛とは対照的に、中央に対して狭隘な地方、理想に対して現実、打算、狡猾さを演じさせる。それでも天の非情に逆らえない人間。同じ木下戯曲の代表作「オットーと呼ばれる日本人」もゾルゲ事件での尾崎秀実がモデルだが、双方通底するテーマがある。
 さて、滝沢だ。?新劇の神様??リアリズム演劇の最高峰?と称賛されたが、その人生は波乱の生涯であった。明治39年の生まれで、画家を志していた。ところがチェーホフを学ぶために築地小劇場の夏期講座に通ううちに、ひょんな拍子から第1期研究生となってしまった。運命の悪戯である。築地小劇場はロシア革命の影響を受けた土方与志が私財を投じて作った400座席を持つ劇場だ。治安維持法のもと当然弾圧の対象となった。
 自分の熱烈なファンであった古谷文子と結婚し、長男荘一が生まれた後、逮捕投獄される。この獄中体験もすべて俳優滝沢を作る滋養となっていくから、人間遠回りするのも悪くはないと思えてくる。戦後、劇団民芸を宇野重吉らと旗揚げする。多くの人々に生きてゆく歓びと励ましになるような民衆に根ざした演劇芸術を目指そうというもの。その地歩を固めたのが「炎の人~ファン・ゴッホの生涯~」。滝沢が演じたゴッホが評判を呼んだ。これは獄中で、文子夫人が差し入れてくれたゴッホの伝記がきっかけで、少年時代に画家を志していた滝沢は舞台化の夢を抱き続け、劇作家の三好十郎に戯曲を依頼してのものだった。ゴッホが耳をそぎ落とす場面など、鬼気迫る迫真の演技にぞっとさせられる。エピソードは枚挙にいとまない。「夜明け前」の青山半蔵役では、雪の上を下駄で歩く場面だが、下駄の音がカタリともしない。下駄を足の裏に吸い付かせてしまう能の足遣いである。海水パンツひとつで稽古をし、この心理の時には、筋肉がこう動くと指導したという。俳優という仕事というもののはかなさ、そしてはかないだけそれだけそこに籠められるている無限の貴重さを信じて自己訓練した完全主義者である。平成12年6月、93歳で永眠した。
 その滝沢修の長男荘一が、毎日新聞を辞した後、富山国際大学教授に転じている。父に対して無関心であり、ほとんど何も知らなかった彼が、妹二人の反対を押し切って著したのが「滝沢修と激動昭和」。新風舎文庫、562円。文子夫人は41歳で亡くなり、老後の父を支えた二人の妹の反対理由は、父は「俳優・滝沢修」と「私人・滝沢修」を厳しく分ける人、舞台芸術は、その一瞬一瞬が芸術であとに残すべきものではない、舞台で輝いていた滝沢修が、ファンの脳裏に生き続けてくれれば、それこそが最高ではないかというもの。でも滝沢修が終生貫いたのが「反戦平和」。その父が公演前の講演で「楽屋話や失敗談でお茶を濁したくない。80歳の今、一期一会の思いで、私が本当に聞いていただきたいことだけを話します」と反戦平和を訴えたことを知り、これをこのまま眠らせておけないと父の生涯をまとめた。

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