天皇陛下が喉元まで出かかって出しておられない言葉があると思うのです。それは、先の戦争で天皇という名前のために多くの方が亡くなった。そのことで、私が如何に苦しんでいるかわかりますか、というお言葉なんです。
半藤一利が「月刊文藝春秋9月号」で指摘している。その通りだと思う。「天皇陛下!万歳」と叫ぶ戦場での兵士たちの声が、陛下の脳裏にこびりつき、苦しめている。人間らしい普通の感情だ。サイパン、パラオ、フィリピンなど太平洋戦争の激戦地を慰霊のために訪問し、首を垂れて深く長い礼にその思いが込められている。7月13日の天皇のメッセージは第2の人間宣言と解した方がいい。天皇という生身の人間と天皇制について、深い論議をはじめなければならない。
半藤一利と保坂正康がこの6月14日、両陛下に招かれて参内している。昭和史に詳しい二人は格好の話し相手だったようだ。文春はすかさずこの二人に対談させ、総力特集の冒頭を飾っている。といっても、半藤は元・文春社員なので自ら持ち込んだのかもしれない。皇室物はとかく奥歯にものが挟まったようになり、つまらないものになるのだが、もう失うものがない二人はあっけらかんと語り合っていて、おもしろい。月刊文春は年に一度買うかどうかで、芥川賞受賞作が面白そうかどうかが基準になる。村田沙耶香の「コンビニ人間」を拾い読みしようと求めたが、その前にこの対談にのめり込んでしまった。
半藤が帯状疱疹の痛みを話すと、美智子皇后が「私も3回も経験がございましたよ。ものすごく痛かったけれど、我慢して、外から見ればわからなかったと思います」と同情しきりで、気の合った老人同士が気さくに話している雰囲気である。調子に乗った半藤が、ある連隊長が戦場で“ケツ”を撃たれて入院しましてね、というと、天皇がうれしそうに身を乗り出して聞き入っている情景なども実にいい。この天皇を憲法上「日本国の象徴」ならびに「日本国の国民統合の象徴」として、終身での業務実践を義務付けている。義務付けられた方はたまったものではない。そして、皇室に生まれ、皇位継承者となれば避けることはできない。天皇制と天皇という人間存在の間に大きな矛盾がある。どちらかを変えるしか方法はないとすれば、先進的な民主国家としてどちらを選ぶか、明白であろう。
戦争の末期、南原繁東大総長などが議論をリードしたことがある。幾百万の人々が天皇の名を叫びながら死に、天皇のために戦い、苦しんできた。制度上天皇は無答責の立場にあって戦争責任は問われないが、道義的な責任を最も感じている昭和天皇は退位をも視野に入っていて、南原も積極的な退位論に傾いていた。東京裁判でA級戦犯7人が処刑された時に,退位して謝罪詔勅を出していれば、違った日本が出来ていたことは間違いない。
さて、安倍政権の対応だが、自民党改憲案では天皇は元首となる。その底意には万世一系、男系継承にこだわり、国体護持が見え見えする。戦前回帰そのものといっていい。我が国の安全保障の基盤となるのは、日米同盟を前提に、先進的で民主的な価値観の共有であるというが、果たして通じる論理であろうか。
半藤がいみじくもいっている。一般の国民は、特別視するあまりか、陛下が人間としての大事な権利をお持ちでないことを忘れています。
陛下も大多数の国民も、だれも望んでいない方向に議論が進むことだけはあってはならない。
天皇退位雑感