何年ぶりに会った友人は、親しく話しかけてくれた。以前に会った時は、彼女の息子が全国高校サッカー選手権大会にキーパーとして出場したことを、うれしそうに話してくれたので、実はわが愚息も、と盛り上がった。ところが、今回は少し違った。連れ合いが脳梗塞で障害が残り、その暗い表情と格闘しなければならない毎日を言葉少なに語ってくれたのである。本は読めるのか、と言葉を返すと頷いてくれたので、格好の本を送るからと約束した。明文堂滑川店に1冊在庫があることを確認し、届けることができた。
あの多田富雄教授(?211「露の身ながら」・?234「一石仙人」を参照)が脳梗塞後に襲った筆舌に尽くしがたい障害の中で、1日5時間左手でキーボードを叩きながら、また本を出したのである。「寡黙なる巨人」(集英社)。障害を持つ人には福音の書といっていい。ぜひ、読んでほしいと心から願った。
先月25日成田に降り立って、携帯電話をオンにしたところ、すぐに鳴り出した。相変わらず元気な声は、旧知の長野一朗・日本補完代替医療学会広報部長。新しいことを始めたので、その報告もあり訪ねたいという。早速会うと、新しい名刺には有限責任中間法人「自然科学とリベラルアーツを統合する会」事務局長とある。提唱者はいわずと知れた多田教授。
「科学や技術の進歩に必然的に含まれる光と影は、当事者である科学者だけでは解決できない。問題点を解決するには、広い意味での教養“リベラルアーツの知” が不可欠。このような観点から、理系の研究に携わっている者と、文系の仕事に従事している人が、フリーに交流できる場を作り、科学の問題を文学、演劇、音楽等の芸術媒体で表現、理解する試みや、文化、 社会の問題を科学の目で解明する試みを支援したい」と謳う。
それもいいが、その組織形態である。組織は持たず、それぞれにその趣旨を理解賛同した人は、自発的に活動を行ってほしいと呼びかける。肝にして要とはこのこと。聞きなれないが、有限責任中間法人とある。基金を集めて活動するが、その利益は配分しない。同窓会、同好会とかに適している。法人格を有することによって、もっと大きな視点から資金を獲得し、展開できることもある。
これは肝に銘じてほしい。団塊の世代諸君よ、名前だけ同窓会や町内会に名を連ねるだけでは駄目。絶えず、いま自分に何ができるか自問自答してほしい。前例通りでは引き受けてほしくない。ギリギリの越境をしてほしい、と思う。例えば、同窓会がリクルート情報の提供や、ベンチャー育成のインキュベート機能を持つことも可能になってくる。町内会も法人格を有すれば、もっと何かできるはずである。地域活性化の発想レベルの大転換に結びつけねばならないのだ。またまた繰り言になってしまったが、許してほしい。既存の組織であっても、新たな人を得ての刷新は喫緊の課題である。
さて、リハビリテーションについてだが、認識を新たにしてほしい。多田の論である。ほぼ3つに分類されるが、歩く練習を中心としてPT、日常の仕事を中心としたOT、言語療法STである。TとあるがセラピストのTである。この3つのTがなければリハビリとはいえない。東京大学でもリハビリテーション科が独立したのが最近で、それでもSTがまだない。人手だけがかかってコストに見合わないとして、発症後180日以上は医療保険でのリハビリができないという厚生省方針は死の宣告に等しいという。リハビリは1日休むと、取り戻すのに2日かかるというのは真実。前立腺がんを併発した多田は3週間入院することになったが、手術前に150メートル歩けたのが、立ち上がることさえ出来なくなっていた。
何でもそうなのだ。小さな積み重ねでしか、進歩、改善は期待できないのである。たとえ死が目前にあったとしても、小さな歩みを止めるべきではないのだ。多田が必死のリハビリで獲得した“寡黙なる巨人”は、そんなバトンを次なる命に手渡そうとしているように思う。
「寡黙なる巨人」