「閣僚・官僚は総理に対し絶対的な忠誠、自己犠牲の精神が求められている」。18日、中川自民党幹事長が、仙台市で講演した一節である。更に続けて「首相が入室したときに、起立できない政治家、私語を慎まない政治家は、美しい国づくり内閣にふさわしくない」と官邸を批判した。そういえば、さる予備校でもそうだった。訪問すると、そのフロアの全員が起立してあいさつする。これは、仕事を一瞬であっても放り出してしまうことでもある。仕事の邪魔をするような気持ちになって、以後訪問するのを避けるようになった。経営トップの指示に相違なく、その人格にも大きな疑いを抱いたものだ。
そして、最近は社の玄関まで見送りするのがはやりのようだ。これは恥ずかしい。受付嬢まで出て来て、車の品定めをされているみたいで、わがアリオンも身を縮めるように発進しなければならない。取って付けたような礼遇は、迷惑、困惑である。
自説である。閣議であっても、起立しなくてもいい。また、首相が必ず最後に入室することもない。時間があれば自ら早目に入って、雑談していてもよく、定時になれば始めればいいのである。そもそも絶対的な忠誠のもとで、議論などできるはずがない。いや、その必要もないのである。前日の事務次官会議ですべてが決まっており、閣議は形式に過ぎないのだ。この解決こそ改革の第一歩であっていい。
多分、企業も同じだ。どこの取締役会でも、閣議と似たような風景だろう。常務以上の会議で決めたものを形式的に認めるだけであり、遅刻、私語、まして発言など厳禁となっているケースもある。
こうした風潮をパターナリズムというらしい。個人の自由や自立を否定し、上下関係や権威への服従を強調する文化である。父権主義もはいるが、ちょっと優しさを垣間見せる温情は、このところの日本的な経営への見直しや、競争圧力に押されて、いつの間にか消えてしまった。すべてをかなぐり捨てた、剥き出しのパターナリズムが横行しているといっていい。自由や主体性を求める人にとっては、とても息苦しい。息苦しさを超えて、精神的に追い詰められている。
さて、ここまでは従来の論である。こんなレベルで袋小路といっては、閣議を笑うことはできない。2月19日朝日新聞「時流自論」で、本田由紀東大助教授は、これほど大量の低所得労働者が出現しているのに、暴動も起こさないのは依存する家族があるからでは、と推論している。個々人のミクロというよりも、経済システムそのものが家族、つまり高度成長を謳歌した親世代へ、システムとして依存しているのではないか、というのである。思い当たることに事欠かない。彼の家も、いや隣家もそうだ、わが家だって、となる。
そういえば、すべてのリスクを抱え込んでいるのが家族といえる。リスクは挙げればキリがない。失業、病気、事故、離婚などなどこれらをすべて抱え込んでいる。このリスクを家族に依存させ、見て見ぬ振りをして、自己責任だと叫んできたのがこの10年。またこの世代限りで、この依存関係は維持できないと誰もが思っている。改革のまやかしがようやく明らかになってきた。そろそろ時節到来といこうではないか。
これらのリスクを社会化して、安心とまではいかないが、何とかしてやっていけると思うようになれば、パターナリズムに反撃できるのではないか。そんな仮説の前提が、消費税アップを先送りさせないことである。消費税は、これらのリスクを社会全体で受けとめるために必要だ、という論議を巻き起こしていく。誰もが負担する消費税である。その使途を論議して誰に憚ることもない。絶対、実りあるものになると確信する。
空論をもてあそぶというわが通信に一石を投じる思いだ。われら草の民も、馬鹿ではないのだ。いつまでも、縮み志向でいいはずがない。身を切らせる覚悟で臨めば、切りひらける未来があることを信じよう。そして、時に騙されてみよ!
パターナリズム